畑倉山の忘備録

日々気ままに

ウォール街が支配する天皇制国家

2019年01月27日 | 歴史・文化
近代日本は明治維新で始まると言えるだろうが、徳川体制の転覆にイギリスが関与していることは否定できない。そのイギリスは18世紀の後半から生産の機械化を進めたものの、巨大市場だった中国で売れない。商品として魅力がなかったということだが、逆に中国の茶がイギリスで人気になって大幅な輸入超過。この危機を打開するためにイギリスは中国へ麻薬(アヘン)を売ることにしたわけだ。

当然、中国側はアヘンの輸入を禁止しようとする。そこでイギリスは1840年に戦争を仕掛けて香港島を奪い、上海、寧波、福州、厦門、広州の港を開港させたうえ、賠償金まで払わせている。これ以降、香港はイギリスやアメリカが東アジアを侵略する重要な拠点になった。

1856年から60年にかけてはアロー号事件(第2次アヘン戦争)を引き起こし、11港を開かせ、外国人の中国内における旅行の自由を認めさせ、九龍半島の南部も奪い、麻薬取引も公認させた。

イギリスが行った「麻薬戦争」で大儲けしたジャーディン・マセソン商会は1859年にトーマス・グラバーを長崎へ派遣し、彼は薩摩藩や長州藩など倒幕派を支援することになる。その邸宅は武器弾薬の取り引きにも使われた。

1863年には「長州五傑」とも呼ばれる井上聞多(馨)、遠藤謹助、山尾庸三、伊藤俊輔(博文)、野村弥吉(井上勝)が藩主の命令でロンドンに渡るが、その手配を担当したのもグラバー。渡航にはジャーディン・マセソン商会の船が利用された。こうしたイギリスを後ろ盾とする人びとが作り上げた明治体制は「現人神」の天皇を頂点とする一種の宗教組織で、当初の天皇は飾り物にすぎなかった。

廃藩置県の後に琉球藩をでっち上げるという不自然なことをした後、日本は台湾、朝鮮半島、中国というように侵略していくが、その背後にはイギリスやアメリカの影が見え隠れする。日露戦争で日本はウォール街のジェイコブ・シッフから資金を調達、ウォール街と結びついていたシオドア・ルーズベルト大統領の仲介で何とか「勝利」している。

関東大震災の復興資金をJPモルガンに頼った日本はウォール街の強い影響下に入るのだが、1932年にその関係が揺らぐ。この年に行われた大統領選挙でJPモルガンをはじめとするウォール街が支援していた現職のハーバート・フーバーが破れ、ニューディール政策を掲げるフランクリン・ルーズベルトを選んだのである。

フランクリンは巨大企業の活動を規制して労働者の権利を認めようとしていただけでなく、ファシズムや植民地に反対する姿勢を見せていた。親戚だというだけでシオドアとフランクリンを同一視するのは大きな間違いだ。

そこで、ウォール街は1933年にクーデターを準備し始めるのだが、この事実は名誉勲章を2度授与された海兵隊の伝説的な軍人、スメドリー・バトラー退役少将の告発で発覚する。計画についてバトラー少将から聞いたジャーナリストのポール・フレンチはバトラーに接触してきた人物を取材、コミュニストから国を守るためにファシスト政権をアメリカに樹立させる必要があると聞かされたという。これも議会の記録に残っている。

皇室とウォール街を結ぶ重要なパイプだったのがジョセフ・グルー。1932年から41年まで駐日大使を務め、戦後はジャパン・ロビーの中心的な存在として日本の「右旋回」、つまり戦前回帰を主導した人物だ。

このグルーの親戚、ジェーン・グルーはジョン・ピアポント・モルガン・ジュニア、つまりモルガン財閥総帥の妻。またグルーの妻、アリス・ペリー・グルー(ペリー提督の末裔)は大正(嘉仁)天皇の妻、貞明皇后(九条節子)と華族女学校(女子学習院)で親しくなっている。言うまでもなく、昭和天皇は貞明皇后の子どもであり、昭和天皇はウォール街と結びついていたということにもなる。

戦後、「日米同盟」の仕組みを作り上げる上で昭和天皇が重要な役割を果たしていたことを豊下楢彦教授は明らかにしたが、その背景にはこうした事情もあった。吉田茂首相とマッカーサー司令官ではなく、天皇とワシントンとの間で軍事同盟の青写真が描かれていったのである。「悪いのは全て軍部だった」で内務官僚をはじめとする役人、学者、新聞記者などは責任を回避、その結果が現在の日本につながっている。

(櫻井ジャーナル 2014.12.24)