江戸城無血開城は、通説では西郷と勝の会見において、西郷の肚(はら)によって決定したことになっている。しかし西郷は武力討伐を主張しつづけた張本人である。それが最後になって妥協したのは、よくよく事情があったにちがいない。結論をさきにいえば、それは日本の国内秩序を一日もはやく回復させ、貿易の発展によってその利潤を期待するイギリス公使パークス(40)の助言によるところが大きかった。
『戊辰日記』によれば、「西郷吉之助(隆盛)かつて英国公使に会せしに、公使徳川公の処置を問ふゆゑ、西郷答へに、大逆無道罪死にあたるを以てす。公使いはく、万国の公法によれば、一国の政権をとりたるものは、罪するに死をもってせず、いはんや徳川公これまで天下の政権をとりたるのみにあらず、神祖以来数百年太平をいたすの旧業あり、徳川公をして死にいたらしむるは公法にあらず。新政にこの挙あらば、英仏合同徳川氏をたすけて新政府をうつべしといへり。西郷大いに驚愕して、爾後宥死の念をおこせり」という話がつたえられている。
(圭室諦成『西郷隆盛』岩波新書、1960年)
『戊辰日記』によれば、「西郷吉之助(隆盛)かつて英国公使に会せしに、公使徳川公の処置を問ふゆゑ、西郷答へに、大逆無道罪死にあたるを以てす。公使いはく、万国の公法によれば、一国の政権をとりたるものは、罪するに死をもってせず、いはんや徳川公これまで天下の政権をとりたるのみにあらず、神祖以来数百年太平をいたすの旧業あり、徳川公をして死にいたらしむるは公法にあらず。新政にこの挙あらば、英仏合同徳川氏をたすけて新政府をうつべしといへり。西郷大いに驚愕して、爾後宥死の念をおこせり」という話がつたえられている。
(圭室諦成『西郷隆盛』岩波新書、1960年)