小笠原家の三家鼎立 鈴岡と松尾の争い
おさらい・・・・・
小笠原政康が嘉吉二年(1442)に死去すると、政康のあとを継いだ嫡子・宗康と府中小笠原持長との間で家督争いが起った。文安三年(1446)宗康と持長は漆田原で合戦におよんだ。戦いは激戦となり一日の間に合戦七回、数に劣る持長勢が最後の激突において宗康を討ち取り守護方の敗戦に終わった。この合戦に坂西政忠・同上総介兄弟は持長勢に属して奮戦、上総介は討死をした。この戦いは、宗康側は、弟・光康の軍勢や別家同族の坂西氏や伊那春近の春日氏をはじめとする国人衆が加勢し、持長側は、同族の赤沢氏や犬甘氏をはじめとする筑摩・安曇野の国人衆が加勢していた。
流れ矢で深手を負った宗康は、死期を悟り、光康への惣領家相続の手続きを取り、譲状を作成して、政秀成人までの後見を光康に託した。持長は宗康を敗走させたといえ、家督の実権は光康に譲られているため、幕府は守護職と小笠原氏惣領職を光康に安堵した。しかし、信濃国から持長の勢力が消え去ったわけではなく、以後も持長と光康の二頭支配が続き、両派の対立は深刻の度合いは強めていった。
小笠原政秀独立、そして一族の惣領へ
そして、寛正年間に、養父・光康が没して、小笠原政秀が独立した。
政秀は寛正二年(1461)、養父の死により家督を継承したと推測されている。鈴岡城に拠り、弟の松尾城主小笠原家長(光康の子)や又従兄の府中城主小笠原清宗(持長の子)と並ぶ勢力となった。特に、光康には養父として育てられたので、政秀と家長は兄弟として育てられ、当初関係は良好だったと聞こえる。応仁の乱・東軍並びに将軍・義政や義尚からの信頼も厚く、西軍の美濃・土岐氏や府中小笠原家や三河の西軍の豪族の征伐の催促状が度々届き、最初は、美濃に仲良く出征している。
まず政秀が、小笠原一族の惣領になった時、対する府中と松尾は誰であったのか。それと小笠原家の内訌は、幕府の将軍を巡る混乱・応仁の乱の東西対立の鏡であること、更に信濃の有力な諏訪一族の内訌と絡み合い、敵味方の加勢の構造を複雑にしている。そして、この部分を解かなければ、理解は正確でない。
まず府中小笠原家だが、各家主の生没は、以下のとうり
小笠原持長、生誕:応永三年(1396)-死没:寛正三年(1462年)
小笠原清宗 生誕:応永三十四年(1427)-死没:文明十年(1478)
小笠原長朝 1443-1501
小笠原貞朝 生誕:寛正二年(1461)-死没:永正十二年(1515)
小笠原長棟 生誕:延徳四年(1492)-死没:天文十一年(1542)
鈴岡の小笠原政秀は、生誕不詳で、宗家継承が、寛正二年(1461)-死没:明応二年(1493)、であるから、対立関係にあった府中は、清宗・長朝・貞朝の時である。
府中小笠原氏の成立、康正ニ年(1456)ごろ、持長の子小笠原清宗は、伊那の小笠原光康と争い、清宗を関東の足利成氏が、光康を越後の上杉房定が支持するなど対立が複雑化するところへ、宝徳元年1449)から諏訪氏の内訌も加わつた。
・・清宗の対立・・応仁元年(1467)頃から清宗は、鈴岡の小笠原政秀(小笠原家惣領)から攻撃を受けて、府中に攻め込まれた。この時宗清は府中を棄てて逃げている。
文明五年(1473)には、室町幕府から信濃守護に任命されている。しかし、小笠原家をまとめ上げることはできず、小笠原長朝(清宗の子)を養子に迎え、再び家督を譲らざるを得なくなった。
鈴岡小笠原家の当主・政秀は、この時期の三家の中で、武家としての力は抜きんでいたことが覗われる。この力は幕府にも聞こえ、信濃守護の補任されている。さらに諏訪大祝家や高遠家とも同盟を結び、度々府中小笠原を脅かした。
政秀は、最初から松尾小笠原と対立したわけではなく、友好的であった。政秀が、勢力を拡大していく過程で、伊賀良荘の領有問題で、松尾家と対立するようになる。
この頃の幕府の動きを確認すると次の様になる。
文明五年(1473)、東西総大将の死と将軍職継承が発生する。後土御門天皇の時で、将軍は八代・足利義政が退き、九代・義尚に替わっている。
その時の命令書(御教書)
○2月21日、将軍足利義政、東軍に属する信濃の小笠原家長(松尾家)に信濃守護・小笠原政秀(鈴岡家)とともに西軍の美濃守護・土岐成頼を征伐するように命じる。
○3月17日、将軍足利義政、美濃の富島為仲に小笠原家長や木曽家豊と協力して出陣するように命ずる。小笠原家長・木曽両軍は、東美濃に攻め込み、守護代・斎藤妙椿が守る土岐氏の居城・大井城と荻島城を攻め落とす。
・・・12月19日、義政、子・義尚を元服させ将軍職を譲る。弱冠九歳。
この、命令書を見る限り、東軍に属する松尾・小笠原家長は、幕府からは、守護の鈴岡・小笠原政秀と同等の扱いを受けているように見える。従って、年齢の若い家長も又、我こそ、宗家本流だという意識が強かったのだろうと推測出来る。将軍から政秀に当てた命令書は見つかっていないが、これは同族の対立争乱の戦火で、消失又は散逸したとしても不思議ではない。
文明十年(1478)12月、府中・小笠原清宗が、享年52歳で没し、子・長朝が後継となったが、長朝が不在中に、鈴岡・小笠原政秀が深志に侵攻した。
文明十一年(1479)9月、伊那郡で鈴岡・小笠原政秀(政貞;宗康の子)と松尾・小笠原家長(光康の子)が争い始めた。小笠原家は遂に三家に分裂し混乱した。幕府の要請での、幾つかの出兵に嵩む戦費で、両家と伊那の国人衆が疲弊し始めた経済的原因となっていった。松尾と鈴岡は、伊賀良の領有で衝突をし始めたようである。両人の父・光康(政秀には養父)の時代には、松尾も鈴岡も伊賀良の一部であった。分割相続により細分化され、以後の伊賀良は、松尾と鈴岡(=竜岡)を除いた区域を言うようになり現在に続いている。(尚、隣接は、当時”郊戸”と呼ばれ、旧飯田市街地を指し、別家同族の坂西氏の領分である。)
この時、諏訪上社大祝・諏訪継満は政秀を助勢するため伊那郡島田(=松尾)に出兵し、この継満と義兄弟になる高遠継宗も継満に従軍している。諏訪神族の諏訪家でも内訌が起こっていて、諏訪継満と小笠原政秀(=政貞)は同盟を結んでいたようである。この時、隣接の郊戸の別家・坂西正俊は、熱心な諏訪上社の信者で、”孫六"という名で活躍し、鈴岡・政秀と諏訪大祝・諏訪継満を間と取り持ち、同盟関係を構築している。小笠原家の内訌は、こうして幕府とも絡み、諏訪神族とも絡む、三重の重層的な内乱へ発展していくのである。
小笠原政秀は諏訪氏と同盟を結び、文明十二年(1480)に家長と戦って討ち果たし、伊賀良を領有し、伊賀良は姻戚の下条氏を代官に置いた。下条氏の女は、政秀の室である。
文明十二年(1480)、府中・小笠原長朝は、諏訪大社上社と下社の争いに介入する。長朝は、下社を支援し、上社を支援する伊賀良の小笠原と戦うことになる。小笠原長朝は筑摩と安曇地方で勢力を広げようとしたため、周辺の豪族の反発を受け、安曇地方の北部で勢力を持つ仁科氏(大町市)とも争うことになる。
翌、文明十三年(1481)四月、諏訪惣領・政満は仁科氏・香坂氏らと協力して小笠原長朝を討つため府中に攻め入っている。・・小笠原長朝は、仁科氏との戦いや諏訪政満による府中の直接攻撃などを受け形成がしだいに不利になっていく。
そして、ついには鈴岡の小笠原政秀に攻撃を受けて本拠地である林館(松本市)を占領され、府中の小笠原家を滅亡の危機にさらしてしまう。逃亡した小笠原長朝は、自分が叔父である小笠原政秀の養子となることで許され、再び府中に戻る事ができた。
諏訪家の方も内訌が激化します。
翌、文明十五年(1483)一月、大祝継満は、惣領政満父子を居館に招いて殺害し、惣領家の所領を奪って千沢城に立て籠るという一挙に出た。一気に上社の支配権を掌握しようとしたのである。これに対し、矢崎・千野・小坂・福島・神長官らの各氏は、大祝のとった行動を支持せず大祝の籠る千沢城を襲撃した。大祝継満は父頼満をはじめ一族に多数の犠牲者を出し、高遠継宗を頼って伊那郡に逃れ去った。
諏訪上社の内乱に対して、諏訪下社の金刺氏は継満に味方して挙兵します。上社の内訌を好機として頽勢挽回を図ろうとしたのである。金刺氏は継満の一派とともに高島城などを攻撃するが、諏訪の惣領勢は反撃し、下社勢は敗北し、下社付近は一面の荒野と化していまった。金刺興春は討ち取られて没落し、下社は一時衰退してしまった。
翌、文明十六年(1484)五月、小笠原政秀の援助を受けた大祝継満は、高遠継宗・知久・笠原ら伊那勢を率いて諏訪郡に侵入し、上社近くの片山城に籠城したが、小笠原長朝に攻められて退去した。
その後も、高遠継宗が中心になり、文明十九年(1487)、再三諏訪の惣領家に対して抗争が続きますが、同盟の小笠原政秀は、後援を続けたようです。
たが、明応二年(1493)1月4日、小笠原政秀・長貞親子は、小笠原定基(貞基・家長の子)に、松尾城で謀殺されます。
・・これには異説があります。殺されたのは事実としても、場所は伊賀良・名古熊で、時に勢力を拡大していた知久頼為と松尾定基が共謀して、信濃守護政秀を殺害した、と言う説です。また、政秀が松尾城で殺され、子の長貞が名古熊で殺されたと言う説です。どうも名古熊説の方が納得のいく説のように思えます。親を殺された松尾定基の松尾城へ、殺した方の政秀が、のこのこ出向くことは普通考えられません。知久頼為と松尾・小笠原定基が、同盟関係であったことは、幾つかの書で確認されており、知久頼為は相当のやり手で、領主時代自領を倍ぐらいに拡大し、かつ、不落の名城・神ノ峰城を築城しています。・・不落の名城と言っても、結局武田軍の山本勘助に攻め落されましたが・・・
・・続く