探 三州街道 

伊奈備前守、高遠保科家、信濃国など室町時代・戦国期の歴史。とりわけ諏訪湖と天竜川流域の歴史の探索。探索者 押田庄次郎。

三河小笠原家  サイドストーリー

2014-05-22 23:11:56 | 歴史

三河小笠原家

南朝の尹良親王に与した小笠原政季や小笠原信長の出自を辿っていくと、三河の小笠原家に行き着く。
幡豆小笠原家(現・西尾市)のことである。
この小笠原家は、伴野家の系流らしい。伴野家は、小笠原長清の嫡流で・惣領家であったが、霜月騒動に連座して壊滅的となった。替わって惣領家になったのが、小笠原長径であり、以後この系流が信濃守護を歴任する小笠原宗家の系流となった。伴野家は、信濃に二流が存在したと言われる。一つは、鎌倉幕府の成立期に、小笠原の惣領であった佐久の伴野家で、霜月騒動で没落した時、佐久の付近に潜んで再起を待ち、やがて復活している。
もう一つは伊那の伴野家で、佐久の伴野家と同族と思われる。どうも、三河幡豆に流れた伴野(=小笠原)家は、伊那伴野家(豊丘)と考えるのが合理的のように思う。根拠となるのが、尹良親王を守って、藤沢杖突峠から秋葉街道を下り、浪合まで護衛した知久祐矯と小笠原政季は、地の利を理解していた伏が覗えるからである。浪合記は全てが嘘で固められているわけではなく、事歴から300年後の江戸時代に書かれたことに依る、個人名や地名や年代の誤りが指摘されるところで、併せて天皇の皇子を守った人達の、家歴の誇張が多いことに依る。尹良親王の存在自体は、証拠が多すぎるくらいで、信用に足るところで、経緯から尹良を竜東で守るべきは、その地の地理に詳しいものでなければつとまらない。すると知久氏は条件を充たし、伊奈伴野氏(=小笠原氏)であれば条件を充たしそうだ。
三河の幡豆に流れたのは、伴野時長から六代と言うことだから、小笠原宗長か貞宗(七代)の時と思われる。そして、宗長と貞宗の時代は、鎌倉幕府の終焉の時期で、建武の新政、北条残党の抵抗、南北朝時代と続く争乱の時代であった。

三河へ流れた小笠原傍流・伴野泰房が幡豆に移り住んだことが記録に残っている。その後幡豆に伴野の名は消えて、小笠原の名が記録されるようになっていることから、、同族の元の名で地頭になったのであろうと推測出来る。
その後記録が残るのは、応永年間(1394-1427)に、小笠原長房が一色氏の守護代として幡豆に住んでいたらしい。足利一門の吉良氏に従属していた。
南朝の尹良親王に与した小笠原政季や小笠原信長の出自を辿ると、この幡豆小笠原家に行き着くが、系譜として家系から抹消されているところを見ると、幕府側・小笠原家として都合が悪かったか、幡豆小笠原家の傍流であったかののどちらかと見て良いのでは、と思う。

小笠原長春(生年不詳 - 応永十六年(1409)3月)は室町時代の武将。小笠原氏庶流。小笠原長房の子。守護大名一色氏に仕え、若狭、三河などの守護代を務めた。蔵人大夫、三河守、出羽守と称す。入道名は明鎮。子は小笠原長頼(三郎)。

やがて、幡豆小笠原家は二流存在することになる。
幡豆小笠原氏は、の二系統
①欠城の小笠原氏摂津守系 (時長)-泰房-長房-(長春)-(長頼)-安元
②寺部城の小笠原安芸守系 貞朝の次男:定政-広政-重広=広重-信元-信重
 しかし小笠原安元の娘と小笠原広重で縁組み。定政:貞朝の三男とも説あり。

○欠城・・歴史 別名、磯城・幡豆城・西戸城。
・・城主は小笠原氏との事で、安泰寺というお寺の過去帳によると、永正年間(1504-21)には既にお城があったことが確認できます。・・幡豆町大字西幡豆字貝吹(現・西尾市)
○寺部城・・もともと早川三郎の居城:寺部城を小笠原安芸守定政が攻略して入城した城。小笠原氏は徳川家康の家臣となり、やがて関東移封に伴って上総国へ。

寺部城の城主となった小笠原安芸守定政のところを詳しく見て見ると、小笠原貞朝の子息であることは確かなようで、長男の長高を廃嫡し、偏愛していた次男の長棟を後継者とした。廃嫡された長高は尾張に逐電し、その子孫がのちの高天神小笠原氏とされる、との記録が残る。
この時貞朝の正妻の息子達は、府中の貞朝と側女の子で後継者・貞棟を離れて、松尾・小笠原定基のところへ行きます。その頃、鈴岡・小笠原政秀から宗家を奪った松尾・定基は、武力としては信濃で抜きんでており、小田原北条の早雲や尾張守護の斯波家から同盟や援軍の要請を受けて、度々三河などへ遠征しています。この時、定基の三河遠征に同行して、勝ち取った幡豆の地に居着いたのが府中小笠原の傍流の長高と定政で、定政は幡豆で住居し、長高は今川家を頼って、後に高天神城の主となったと言われる。・・高天神城・小笠原家の祖。異説に※4代目松尾小笠原家の次男:小笠原長高が遠江小笠原氏の祖。

戦乱の時代、一色家と吉良家の重臣として過ごし、守護代の時には、勢力拡大に危ぶまれて、一色家により、幡豆小笠原家当主を殺害されている。しかし系流はしたたかに生き延びて、戦国時代・西尾出身の今川氏の支配を受けるようになる。永禄年間(1558-1570)まで、小笠原広重は松平元康(=徳川家康)に従属した・・幡豆町史。
小笠原氏は永禄六年(1563)に起こった三河一向一揆で家康方に味方し、このお城を安堵されています。

その後、府中小笠原長時は甲斐の武田信玄が信濃に侵攻すると、小県郡の村上義清らと連携して抵抗した。天文19年(1550)松本林城が陥落。信濃から駆逐される・・高白斎記。
将軍足利義輝を推戴する一族の三好長慶や京都小笠原氏などが協力して奉公を行った。その後は将軍:足利義輝の没落により、小笠原長時&3男・貞慶は三河の小笠原家に一時暮らしてしていたらしく、一緒に徳川家康に会っている。この時、長時は、幡豆小笠原家に逗留したと言われる。

小笠原貞頼のこと
小笠原長時が、幡豆小笠原家に逗留する時、長時の子の小笠原長隆・貞慶兄弟も一緒だった。この時、家康の元に、貞慶の子・秀政と長高の子・貞頼も、人質として預けられた。家康の家臣で、西三河の旗頭・石川数正は、家康を裏切って秀吉の元へ出奔するが、この時、府中小笠原家からの人質であった小笠原秀政を同行して秀吉側に付いている。
本来の嫡男であった小笠原長隆は、同族三好家の戦役に参軍して戦死しており、府中小笠原長時を継承するものは貞慶しかいなかったようだ。
そこで、長隆の子・長貞は、寺部城の安芸守系に養子に入り、幡豆に居着いて、家康家臣として働き、旗本家として継続したという。しかし長隆の子は、吉次しか確認出来ないと言う説もある。
・・・これが後に小笠原諸島を発見したという小笠原貞頼の経緯である。
経歴は定かではないが以下のとうり・・・信長・秀吉・家康に仕えた。天正十八年(1590) 豊臣秀吉の小田原の攻撃に従軍。朝鮮出兵には軍検使として韓国に渡った。徳川家康の信頼を得て伊豆奉行になり、無人島開発を任された。文禄二年(1593) 南海に航海して、小笠原三島を発見したという。・・『巽無人島記』

参考:小笠原貞頼と小笠原諸島
長時の長子・長隆の次男という貞頼。若くして戦死した父長隆に代って惣領家を継いだ叔父貞慶とともに、彼は幡豆に移住し、幡豆の広重の娘を娶って、この地を拠点にしていた。 その貞頼が、『巽無人島記』によると、文禄二年(1593)、貞頼が今の小笠原島に達し、標柱を立てたというのである。 そして、貞頼の子と称する“小笠原長直”が、幕府にこの島への渡航を依頼している・・巽無人島訴状。またその子と称する長啓、さらにその子貞任も同様の訴状を出している。 結局、貞頼がこの島を発見・上陸したという証拠は得られていないのだが、家康公から「小笠原島」の名を賜り、これを元にこの島は今でも「小笠原(諸)島」が正式名となっている。結果的に、小笠原関係で一番有名なのが、この島である。・・貞任の件を扱った小説に新田次郎の『小笠原始末記』がある。

幡豆小笠原家の領有地は、蒲郡の西海岸部に位置して、海運の盛んな地であった。その為、家康からは海運の方面を任されており、なお府中小笠原家の長棟・長時時代、重臣であった中島明延家とも繋がり、貞頼の姉は中島家に嫁いでいる。この中島家は、徳川家の御用達・京都呉服商の豪商屋号・茶屋四郎次郎のことである。
・・・小笠原貞頼の姉は豪商:茶屋四郎次郎に嫁いでいて、「小笠原貞頼は茶屋をバックボーンとし、茶屋の船に乗り込み、海外交易をたくらんだ。」と言う説もあるが、確認されていない。
小笠原庶流であった遠江国高天神城城主小笠原長忠(信興)が武田信玄に攻められた時に小笠原長隆・貞慶兄弟が「民部貞頼」とともに救援に向かった。・・寛政重修諸家譜

幡豆小笠原氏も関東に移った。 摂津守系の広勝と安芸守系の信元はともに後総州富津に移り、江戸湾の防御を担当した。そこでは旗本扱いとなり、城ではなく陣屋住まいであった。 摂津守系は三方ヶ原の戦いで多くの戦死者を出したこともあり、17世紀早々に途絶したが、寺部城の安芸守系は、明治までその地で続いた。 富津の菩提寺正珊寺には代々の墓があり、富津市の文化財となっている。

茶の文字は、単元の証左であり、複数の証左で担保できていない。当時の状況を加味しての推定。



最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。