探 三州街道 

伊奈備前守、高遠保科家、信濃国など室町時代・戦国期の歴史。とりわけ諏訪湖と天竜川流域の歴史の探索。探索者 押田庄次郎。

小笠原家の内訌 ・・小笠原二家の対立

2014-05-04 18:22:20 | 歴史

小笠原二家の対立
・・・小笠原持長、小笠原家惣領を主張する、まず伊那小笠原家と府中小笠原家の対立

政康の死後、小笠原一族の惣領職をめぐって子・宗康と、京都にあって将軍家の奉公衆を勤める持長との間で相続争いが起きます。これを「嘉吉の内訌」といい、小笠原氏凋落の始まりとしてよく知られています。持長は、結城合戦にも将軍の命を受けて出兵し、父・長将戦死の痛手を受けていました。しかも将軍義教を殺害した赤松満祐の討伐にも、多大な軍功をあったようです。管領・畠山持国と外戚関係にあり、実力を認められ、政治的背景をもった持長は、強力な後ろ盾を持って相続争いに加わっていきます。
・・・*嘉吉の内訌・・1441から1443年を嘉吉(カキツ)と呼び、この年間に一族同士の内乱が次ぎ次ぎ起こります。小笠原家の内訌は、その代表的なものです。どのくらい凄いのかは、応仁の乱で、東西に分かれた軍の名前に、東西に共通の一族名を見ると唖然とします。

『小笠原文書』に政康の置文が遺り、政透(=政康のこと)の花押がある。
「こんといからへこへ候事、目出度候、諸事についていからの事は六郎(光康)にまかせ候、あいはからい候へく候、さうちて、当家の事は五郎(宗康)・六郎両人ならてはあいはからい候ましく候」とある。
・・”こんとい”の意味は不明だが、父親から子供達へ伝えること・と解すると意味が通じる。・・相続について、伊賀良のことは六郎(=光康)に任せ・・・当家(=小笠原宗家)のことは五郎(=宗康・松尾五郎)・・五郎・六郎両人で協力してもり立ててくれ・・という相続申し渡しに解読できそうである。
伊賀良は弟・六郎光康が相続し、兄・五郎宗康は、松尾と安曇・筑摩を伝領する意味と解される。この時点で、府中近辺の住吉荘や近府春近荘の所領は宗康のようだが、近府は誰の所領かはっきりしない。
・・嘉吉二年8月政康が没すると、持長は所領相続の権利を主張し幕府に出訴し裁断を仰いだ。文安二年(1445)11月24日の幕府奉行人連署意見状は
・・「長秀譲与持長之由、雖申、不出帯証状、宗康又譲得之旨雖申、同無譲状」・・
事を前提に、政康が宗康・光康に宛てた書状から、
・・総じて当家の事は五郎(宗康)・六郎(光康)の相計らいに任す、
・・とあり、「宗康可領掌之条勿論」と、結局、信濃守護職は、在国していた宗康に安堵された。
書状にはないが、以来持長が府中に住んでいることから、府中は持長の所領となったと思われる。以後府中持長が文中に顕れるようになるが、裏付けの証左は見つからない。この幕府の裁定には、持長の後見であった畠山持国が管領職を解かれ、細川氏に変わっていた為とも言われる。
しかし、信濃は府中の持長方と伊賀良の宗康方とに分かれ、国人衆も2派に分裂して対立抗争が始まる。・・教科書的にはその通りだが、ことはもっと複雑で、幕府内でも勢力争いが起こっていて、具体的には将軍擁立問題で、対立は激化している真っ直中で、小笠原家内部の対立は、幕府の対立を引き継ぐ形で表面化していったようです。・・これが世に言う”応仁の乱”です。

応仁の乱・・・
将軍義政の時の管領は畠山持国で、持国は小笠原持長の外戚で後見でした。・・畠山持国の支援を受けられた背景には、持長の母(長将の妻、長将の戦死後)が持国の妾となって息子義就を産んだからとされる、一部異論有り・・。
義政が将軍を辞して、弟で出家している義尋(=義視)に将軍を譲ろうとします。義視を将軍に推したのは細川勝元でした。勝元は、畠山持国を解任し、代わりに管領職に就いています。
義政の正妻・日野富子は、子供の恵まれなかったが、やがて義尚を生み、将軍につかせたいと思い、山名宗全に協力を求め、山名と細川は対立するようになります。
細川家と小笠原家は、細川家の家宰(=家老)的立場が三好氏で、小笠原同族です。従って、伊那小笠原家は、細川側(=東軍)です。
細川と山名の対立が、幕府重臣の同族間にも普及して二分し、やがて管領家の配下の地方にまで広がって、地方豪族も二分していきます。東軍と西軍とに分かれて全国の地方で諍いを起こしていきます。
日野富子は、近習・側近と謀って、義尚の将軍就任のため、義視の暗殺を企んだようです。近習・側近は申次衆・奉公衆と言われる人達の一部です。義視は、身の危険を感じて、はじめ細川勝元の東軍でしたが、西軍へ逃げ込みます。
やがて山名宗全と細川勝元は仲直りし、勝元は義尚を将軍の推すようになります。東軍の旗頭は義尚に、西軍は義視が旗頭になります。
東西に分かれた両軍を見ると、どちらにも細川氏はいます。畠山も、山名も斯波も京極も土岐も小笠原も、一族を東西に二分しています。
松尾小笠原は東軍で、府中小笠原は、松尾との対抗上西軍です。
・・・でも何度読みかえしても、事跡を辿り返しても、結局訳の分からない、正義や義理もない戦いです。

こうした中、松尾五郎・宗康が小笠原家を相続します。
一方、府中に居を移した持長は、徐々に近隣を従えていきます。まず同族赤沢氏が盟友となって、近府春近の周辺の犬甘氏、平瀬氏、二木氏などを配下にしますが、諏訪神族山家(ヤマベ)氏は靡かないようで、持長の時代の府中は、かなり不安定要素が多かったようです。それでも、とうとう松尾と府中の小笠原家は、直接対決に至ります。
小笠原一族の赤沢満経が水内郡栗田朝日山に城を築き、持長を迎え入れた。宗康は母方の春日伊予守盛定を頼った。文安三年(1446)、宗康は弟の光康に支援を頼んで兵を借り、万が一の場合は光康に惣領職を譲り渡すことを約束して、持長方との決戦に臨みました。
 
かつて持長は京都にあって将軍家の奉公衆の一員であり、畠山持之後任の幕府管領・持国とは外戚関係にあった。しかし、小笠原一族と有力家臣団は、京幕府の重鎮を権威とし、その出生も五畿周辺とみられる。持長が小笠原氏後継を主張する事自体にかなり無理があり、当然幕府の裁許に敗れた。その後も強硬に出られたのも、畠山持国との縁戚関係があったためとみられる。しかし持国や幕府には、最早、諸国守護大名の内紛を統御する実力が失われていた。

遂に、文安三年(1446)3月、善光寺表の漆田原で小笠原両軍と激突します。数に優る宗康が当初優勢であったが、この戦闘で宗康は重傷を負った。宗康は回復が無理だとさとり、同月11日付けの書状を伊賀良の弟・光康に送り、惣領職と所領の一切を子・国松(政秀・政貞)に譲るべきであるが、幼少のため、成人するまで光康に預けると伝えた。この時の兵力差は、当時の所領から類推すると、六対四以上に宗康が有利であったようである。宗康の戦死は、流れ矢に当たったためと記録に残る。
・・この時の弟光康への相続は、松尾と鈴岡との対立に発展し、三家分立=鼎立の戦いへと泥沼化する原因になった。
持長は宗康を敗走させたといえ、家督の実権は光康に譲られているため、幕府は守護職と小笠原氏惣領職を光康に安堵した。しかし、信濃国から持長の勢力が消え去ったわけではなく、以後も持長と光康の二頭支配が続き、両派の対立は深刻の度合いは強めていった。

小笠原持長が信濃守護を半年ぐらい勤めたと言う説をたまに見かけます。しかしそれは家系の仮冒か、自称で根拠は見いだせません。漆田原の戦いで、勝利したとはいえ、圧倒的な勝ちではなく偶然性の高い薄氷の勝利であり、伊那の小笠原を超えることが出来なかった。また松尾・小笠原宗康から光康への譲り状も存在したことから、理屈的にも幕府からの認定は難しく、持長は幕府の裁定も仰いだが、結局光康が守護のなっています。背景となる幕府の権力争いは、。漆田原の戦いの前年、文安二年(1445)、持長の後見の畠山持国が管領職を解かれて、細川勝元の時代になっています。もっと正確には、権力闘争での畠山持国の追放です。根拠のない小笠原持長が信濃守護になったという事実は考えられません。

宗康の子国松は、光に養育され、伊賀良を領有し、成長に従い、政貞・政秀と名を変え、小笠原政秀となった時、鈴岡に在住した。鈴岡城は、竜丘駄科地区の毛賀沢川と伊賀良川に挟まれた川岸段丘の突端部にあり、室町時代、松尾城の小笠原貞宗の次男・宗政が築いていた。標高490m、北は毛賀沢川の侵食による深さ約60mの谷を隔てて、松尾城址と相対していた。光康はその松尾城を拠点としていた。結果、前者が鈴岡小笠原、後者光康が松尾小笠原を称した。善光寺平で戦勝した持長は、筑摩郡林城を拠点とし、井川に館を構えた。ここに小笠原は三家に分流した。三家に分流したといえ、守護光康の時代、鈴岡と松尾に、主たる対立はなく、むしろ良好といえる。

宝徳元年(1449)9月細川勝元が管領職を辞した。勝元は、名門意識と強大な権力を背負って、細川惣領家に永亨二年(1430)、持之の子として生まれた。幼名は聡明丸で十三歳のとき父・持之の死で家督を相続し、わずか十六歳で管領に任命された。以後、死ぬまでに勝元は、通算二十年以上も管領の座にあった。

小笠原家は、府中と伊那な対立している間に所領を顧みる余裕を失い、拠点から遠いところは、浸食をされているようだ。北信への進出拠点舟山郷も『諏訪御符礼之古書』から、漆田原合戦の三年後の宝徳元年には海野持幸が、その十二年後の寛正二年(1461)には屋代信仲が、それぞれ御射山の頭役を割り当てられている事から、小笠原氏はその所領を失っている事が知られる。

光康の死後、家督の相続は、宗康との約束どうり、小笠原政秀(鈴岡政秀)が継ぐことになった。その時の光康の嫡男は家長(松尾家長)であった。

                    ・・・・・改訂2014.5.05

 

続く