探 三州街道 

伊奈備前守、高遠保科家、信濃国など室町時代・戦国期の歴史。とりわけ諏訪湖と天竜川流域の歴史の探索。探索者 押田庄次郎。

小笠原家の内訌

2014-05-02 23:35:22 | 歴史

小笠原家の内訌


内訌とは・・・
内部の乱れ。内部の騒ぎ。うちわもめ。内紛・・・デジタル大辞泉

小笠原氏の内紛・・・「嘉吉の内訌」

・・・内訌に起因する事歴

 信濃守護小笠原貞宗のあと、信濃守護になったのは、小笠原家では、 - 政長 - 長基 - 長秀政康--である。小笠原政康で、小笠原氏の全盛期を築いたが、死後間もなく内紛が生じ、伊那小笠原と府中小笠原が対立する。政康の嫡子宗康を推す派と、政康の兄長将の嫡子持長を推す派が対立する。小笠原氏の内紛の源は政康の父長基に始まる。長基には長将・長秀・政康の3人の子がいた。長基は惣領職の譲状を若い17才の長秀に与えた。長基が、なぜ次男の長秀に、小笠原家を継承させたのかは、歴史書に詳しくない。

・・長基が、父・政長の死後、家督と信濃守護を受け継いだのは、齢八歳の時(1355)と言われる。当時、信濃国は北条残党の勢力が多く残存し、また諏訪神党を中心に、南朝の勢力の拠点が多くあった。北条残党と南朝は、幕府側を共通の敵として手を結び、宗良親王を盟主に置き、信濃各地で争乱を引き起こしていた。おさない信濃守護は、どうも南朝側に対しての対抗に、幕府側のリーダーとして力を発揮出来ずに、援軍の武田氏や上杉氏の働きに後れを取ったようである。長基が守護になった年、宗良親王の軍と幕府側は、桔梗ヶ原で衝突(1355)した。この戦いにより、南朝側は敗北し、信濃に於ける南朝勢力は、一挙に衰退し、以後宗良親王の活動は、歴史から消えていく。一方、幕府側も、桔梗ヶ原で活躍できなかった小笠原長基を信濃守護から解任し、桔梗ヶ原の戦いで戦功のあった上杉朝房を、信濃守護に補任する。
・・これは長基には痛恨であった。そして、長基は信濃守護の夢を子息に託すようになった。相続は、実兄長将より長秀の器量が勝っていたからとも、室町幕府に奉公に出して管領細川家と懇意になり、長秀の後ろ盾が細川管領家だったためとも言われる。この時の細川家の重臣には、小笠原同族で、阿波国守護になった三好家があった。そして長基の分割相続の所領の配分は、長秀が12か所、兄長将が2か所、弟政康が3か所、比丘尼浄契1期分2か所の計19か所であった。但し書きに兄長将と弟政康に子が無くば、両人没後は長秀が相続する。長秀に子が無くば、政康が譲り受けるとした。
・・この比丘尼浄契がよく分からない。一期分を浄契の生きている限りと解けば、側女だろうと解ける。甲斐八代荘の伝承に拠れば、八代荘は八代信清ののち小笠原氏に継承されたらしく,1383年には小笠原長基から尼浄契を経て子息長秀に譲られており,甲斐守護小笠原氏相伝の所領となっていた。・・浄契の存在は、小笠原文書と八代の地方史の二カ所で確認されているので、可能性は高いが、甲斐守護小笠原氏は、よく分からない。
・・但し書きの、もしも文の、”兄長将と弟政康に子が無くば”と”長秀に子が無くば”の解析は、相続が長秀17歳の時、政康8歳の時に比定できる。この但し書きが、後に混乱を招くことになる。
・・この時の長基の住居と所領を特定できれば、小笠原長基の勢力の輪郭が浮かび上がってくるのだが、特定する資料が見つからない。松尾、府中、後庁辺りが有力な候補で、長径以来,幕府は松尾が宗家としていることから、松尾の可能性が強い。長将は塩尻を領分していたことは記録に残るとすれば、長秀は奧春近と近府春近を含む府中が可能性がある。政康は、松尾と鈴岡(竜岡)と伊賀良とすれば、ここは疑う余地は少ない。・・松尾を伊賀良の一部とする説も存在するが、同時期の古文書に、松尾の名が見られることから、それぞれ独立した地域であったが、どの時代か、松尾は伊賀良の一部であったかも知れない。
 長秀は大塔合戦に敗れ、子が無かったため、39才の時、実弟政康に「所々朝恩之本領、恩賞之地等事」と一括譲与する譲状を渡した。但し、長秀に実子ができた場合は無効とし、さらに弟政康に実子ができない場合を想定し
 「任亡父清順(長基)之置文旨、政康可令(申せられる)相続一跡、次政康以後無実子者、自政康手、舎兄播磨守長将之嫡男可譲与彦次郎者也」と、兄長将の子彦次郎、この時9才の持長に譲与されるとした。持長は当時父長将と共に、その所領地塩尻郷にいた。
・・しかし長秀が府中(=松本)に住んだと言う履歴はどこにも残っていない。宗家で生まれ育ち、元服を終えた長秀は、室町幕府へ奉公に上る。ここで、長秀は、時の管領細川氏に、小笠原家が守護に返り咲くように執拗な猟官運動をしたことが記録に残っている。若くして守護職を解かれた父・長基の希望でもあったのであろう。夢を託すに足る長秀である故に、長男を差し置いて惣領の相続であったといえる。この相続は長秀が京都にあった時に行われ、同時に長秀が信濃守護に補任される。この時の内命は、いまだに北条残党として北信濃に跋扈する豪族達の成敗である。長秀は、小笠原同族と幕府側豪族に、北信濃国人衆成敗の通達を出し、まず佐久の大井氏に寄ってから、北信濃へ入った。

国衙が後庁(現長野市南長野町・後町)にあった時代に、中御所守護館は、現在の長野市中御所2丁目に置かれていた。南北朝期から室町期の信濃国の守護所である。その漆田原(長野市中御所の長野駅付近)在地領主漆田氏の館跡が漆田城とも言われ、守護館の北西から西北西の方向に東西約254m、南北118mに漆田城を構えた。源頼朝が建久年(1197)8に善光寺に参詣した際にこの辺りの有力者である漆田氏の館に泊まったとある。

中御所守護館は文安3年(1446)漆田原の合戦のあと廃止になった。小笠原宗康が父の小笠原政康から相続したが、宗康の叔父の子持長(府中)といとこ同志で守護職と惣領をを争うようになった。宗康(松尾)は、持長との争いに敗れて討ち死にしたら光康(鈴岡)に跡目を渡す約束で、合力(援軍)を依頼した。宗康は漆田原で持長軍と戦い傷死したが、持長は戦勝しながら、家督を承継出来ず、その対立が後代にも及んだ。


・・これが大塔合戦と言われる戦いである。長秀はこの戦いで敗北し京都へ逃げ帰った。逃げる時に、自分の所領を通過したのかも知れないが、一度も住むこともなかった。父・長基も、相続を終えると長秀の住む京都へ上り、そこで生涯を閉じたという。信濃へ戻ることの無かった長秀の相続が上記の譲状の文である。弟の政康に跡目を譲り、その時まだ子息がなかった政康に、後も子ができなかったら、兄・長将の子の”彦次郎”=持長に跡目を譲るという譲状である。しかし政康には、後に信濃守護になった宗康という子ができる。
・・政康は、長秀から12カ所以上の所領を相続したようだ。長秀が解任された後の信濃守護は、上杉、斯波・・と続くが、在地にあって信濃に乗り込まないため統治がうまく行かなかったようだ。
そこで幕府は、政康を信濃守護に補任し、荒れる北信濃を治めるべく内命し、政康は、府中の陣屋に駐留することになり、広沢寺と筑摩神社を建立して開基と成り、信濃統一へ力を発揮していく。永享八年(1436)に、鎌倉公方足利持氏と通じた村上頼清と芦田氏討伐を果たし、長年の仇敵・村上家を圧倒する。また、武田信元の甲斐帰還を手助けしている。永享の乱と結城合戦にも参戦しているが、その時の「結城陣番帳」には、信濃国人衆のほとんどが、政康配下になっており、北条残党や南朝側との長い争乱は終止符を打ち、ほぼ信濃国全域が守護に靡いたと思われる。。
この時、塩尻にあった長将・持長父子は、まだ府中を領分していない。持長は、この後将軍家奉公で京都へ上る。
以上が、・内訌に起因する事歴である。     ・・改訂2014.05.04

続く