探 三州街道 

伊奈備前守、高遠保科家、信濃国など室町時代・戦国期の歴史。とりわけ諏訪湖と天竜川流域の歴史の探索。探索者 押田庄次郎。

小笠原家の内訌・終焉 ・・定基と長棟

2014-05-09 09:01:41 | 歴史

小笠原家の内訌・終焉 ・・定基と長棟

明応二年(1493)、松尾小笠原定基が鈴岡小笠原政秀を討った。政秀の子、長貞も討たれたためこの家系は断絶となった。政秀室は小笠原家伝来の家宝などを持って逃れ、府中の小笠原貞朝を頼って落ち延びた。こうして鈴岡小笠原家は滅亡した。
・・*小笠原定基は、書により、貞基、松尾貞基、松尾定基とも呼ばれる。

政秀が謀殺されると、政秀室は実家・下條家に小笠原家の家宝、書類を持って逃れた。政秀室が没すると下條時氏が家宝として書類を守ることとなる。この”小笠原家の家宝、書類”は、小笠原宗家を証明する「弓馬の儀礼」に関係するものか、宗家や守護職を認定する将軍からの書状と考えられるが、定かではない。しかしこの書類の争奪の戦いが繰り広げられることと、権力を握った松尾・小笠原定基が、信濃守護職に就けなかったことから想定すると、守護職の資格に関しての将軍からの約束事を意味したととれる。

守護につて
信濃守護職に付いては歴然としているが、では守護所の変遷は不明確で判然としない。このことが、小笠原家の歴史の宗家争いを混乱させているように思う。府中小笠原の祖のように歴史に書かれている小笠原長秀だが、府中に住んだことは見いだせない。荒れる北条残党に苦慮した貞宗も、拠点を府中に置いたが、国衙と守護所は船山(千曲市)で、国司は京都から派遣された清原氏だったという。ここは、中先代の乱で、北条時行の軍に襲われている。長秀や政康は、守護であったが、守護職の政務の場所として拘ったのが長野市付近で、後庁とかの政務を司る名残の地名が幾つか残っている。またこの場所は、守護職の勢力争いの中心になっている。しかし、その後国衙とか国司とか文字が歴史に現れなくなっているので、制度そのものが有名無実で形骸化し、守護がいるところが守護所であるというように一体化していったのではないだろうか。その意味で、かっては政務の中心であった府中は、室町期には、単なる地名であり、例えそこに居館を構えたにしても、守護所ではない。府中が守護所を兼ねたのは、小笠原長棟と長時の時代のみである。一方を見る時、光康が守護の時は松尾が、政秀が守護の時は鈴岡が守護所であり、宗康以前の守護所は北信の長野市付近であろうと思う。そうすると、当然地頭としての居館の場所に、小笠原家の宗家の場所は存在することに成り、そこは経済的地盤でもある。

諏訪の内訌・・参考
この頃、もう一つの内訌の諏訪神族の状況を見てみますと、伊那郡竜東で高遠氏が台頭しはじめ、諏訪郡では府中の小笠原氏が諏訪社の上社を牽制するため下社を後援したことから、 上社と下社が対立し抗争が繰り返されていた。さらに、従来上社大祝職には諏訪氏惣領が就いた諏訪氏宗家でも大祝家と惣領家と に分かれ、一族の内紛を招いていた。
文明十二年(1480)2月、下社・金刺興春が上社方を攻め、安国寺周辺の大町に火を放った。3月には西大町に火を放つ。興春には諏訪一郡の領主権と諏訪大社上下社大祝の地位獲得の野望があった。同年7月、伊那郡高遠の諏訪継宗が伊那の小笠原家長に合力し伊那郡伊賀良へ出陣して鈴岡の小笠原政秀と戦い、8月には、上社大祝継満が小笠原政秀と共に松尾小笠原家長を攻めている。
文明十三年(1481)四月、諏訪惣領政満は、仁科氏・香坂氏と協力して小笠原長朝を討つため府中に攻め入っている。この時、 政満が手兵として率いたのが伊那郡の諸族であった。伊那郡の諸豪族は、小笠原氏や諏訪氏宗家の動向に左右されること が多かった。
文明十三年(1481)高遠の諏訪継宗は高遠・山田の山田有盛と戦っている。府中の小笠原長朝は、高遠の継宗に味方し山田城を攻めたが長朝は多くの士卒を失ったという。
文明十四年(1482)6月、高遠の諏訪継宗は藤沢荘の高遠氏代官の保科貞親と、その荘園経営をめぐって対立した。大祝継満・千野入道某らが調停に乗り出したが、継宗は頑として応ぜず不調に終わった。継宗は笠原、三枝両氏らの援軍を得て、千野氏・藤沢氏らが与力する保科氏と戦ったが、諏訪惣領政満が保科貞親の助勢に加わると、晦日、高遠の継宗の軍は笠原で敗れた。以後も保科氏との対立は続き、さらに事態は混沌として複雑になる。同年8月7日、保科氏が高遠氏に突然寝返り、連携していた藤沢氏が拠る4日市場近くの栗木城を攻めた。この時、諏訪惣領政満は藤沢氏を助け、その援軍も共に籠城している。15日には、府中小笠原長朝の兵が藤沢氏を支援するため出陣をして来た。17日、府中小笠原氏と藤沢氏は退勢を挽回して、その連合軍は高遠の継宗方の山田有盛の居城山田城を攻撃したが、勝敗は決しなかった。大祝諏訪継満は義兄弟の継宗と連携し、そこに衰勢著しい金刺氏を誘い、伊賀良の小笠原政貞とも同盟した。
文明十五年(1483)正月8日、その大祝諏訪継満が、惣領諏訪政満とその子宮若丸らを神殿で饗応し、酔いつぶれたところを謀殺した。しかし継満の行為は社家衆の反発を招き、神長官守矢満実をはじめとする有力者は継満を干沢城に追い詰め、更に伊那郡高遠へ追いやった。文明の内訌である。下社大祝金刺興春は、継満に同心して、諏訪家の総領の不在を好機として高島城を落城させ、さらに桑原武津まで焼き払い、上原に攻めた。神長官守矢側は敵の攻撃に備えて高鳥屋城に総領家一族と立て篭もっていた。守矢側は一族と共に逆襲に転じ、逆に金刺興春の軍を破り、勝ちに乗じて下社に達し、その社殿を焼き払い、興春の首を討ちとった。その首は諏訪市湖南にあった大熊城に二昼夜さらされた。これで下社方の勢力は衰微する。この時府中の小笠原長朝は、神長官守矢満実・矢崎政継らに味方し、下社領筑摩郡塩尻・小野などを押領した。
翌年の文明十六年(1484)5月3日 高遠に逃げた継満は、義兄の高遠の継宗と伊賀良小笠原政秀(=政貞)、知久、笠原氏の援軍をえて、兵三百余人率い、杖突峠を下り磯並・前山に陣取り、翌日片山の古城に拠った。惣領家方は干沢城に布陣したが、伊那の敵勢には軍勢の来援が続き増加していく。 ところが小笠原長朝が安筑両郡の大軍を率いて、片山の古城を東側の干沢城と東西に挟み込むように、その西側に向城を築くと形勢は逆転した。伊那勢は両翼を扼され撤退をせざるを得なくなった。以後の継満一家は歴史上の本舞台からは消えていく。惣領家は生き残った政満の次男頼満に相続され、同時に、大祝に即位した。5歳であった。
以後しばらくは、惣領家は、府中小笠原に脅かされる諏訪神党の同族の防衛に尽力し、甲斐の武田信虎の浸食に耐えながら、力を温存する。高遠家は、耐えながら時を過ごし、頼継の代になってから、再び勢力拡大の路線へ向いていく。

*・・・高遠城主については、他書において、高遠継宗とか高遠頼継とか表示されることが多い。古書において、高遠継宗などは自らを、諏訪家当主と位置ずけ諏訪継宗を名乗っている。これは、高遠城の祖の大祝・頼継が、南朝の宗良親王を支持して幕府と対抗し、敗れて逃れた時、空位になった大祝を惣領家などが末流から傀儡をでっち上げたことから、諏訪家本流を自認する高遠家の歴代は、諏訪を名乗り続けたことによる。これは、諏訪の内訌の大きな原因だが、双方とも諏訪家を名乗る紛らわしさから、便宜上高遠城主の方は高遠○○と表記されることが多い。しかし、諏訪の内訌を語るときは、高遠の諏訪継宗という方が内訌を理解する上で精度が高いように思う。

松尾・小笠原定基と同盟(合力)した国人衆を見ると、まず天竜川を挟んだ対岸にいる知久頼為と高遠家が歴史に刻まれています。高遠家の方は、継宗の時、鈴岡と松尾の争いに松尾側へ合力して援軍を送っています。また、府中の長棟に攻められた時、高遠頼継は松尾に援軍を送っています。長棟に攻められた時、高遠の諏訪頼継の家老・保科正則が戦死しています。もう一人の知久頼為についてはこの部分を解説している書がほとんどありません。

明応二年(1493)1月4日、小笠原政秀・親子は小笠原定基と知久頼為に謀殺されます。政秀は松尾城に誘われて、子の長貞は伊賀良の名古熊で待ちぶせされ、謀殺されています。

この後、知久頼為は、伴野(豊丘村)を回復した、とありますから、領土問題で同盟を組んでいたことが窺い知れます。

この知久頼為は、人物像がぼんやりしてよく分かりませんが、知久の殿様としては、かなり野望的で精力的で、やり手のようです。とにかく異質です。系譜には、知久家の嫡流の”通字"の”頼”が使われていますが、通称は”知久易先"と名乗っていたようです。易先の読み方は、易のほうは”えき”か”やす”、先の方は”もと”とか”つぐ”とか”さき”とか”ひろ”と読めそうですが、定かではありません。通称の方は、知久家の”通字”が見当たりません。

笠系の系譜?から

知久頼敦敦綱子敦長孫敦幸曾孫敦俊玄孫諏訪敦光耳孫神六左衛門
  頼昭敦貞子敦平孫敦信曾孫信貞玄孫敦俊耳孫四郎左衛門信濃
  為行四郎信濃
  頼矯四郎民部左衛門信濃
  頼季弾正信濃
  頼尚七郎民部信濃
  頼為頼尚嗣四郎子頼季孫七郎民部信濃大和
頼元====1555頼尚子?左衛門民部大和
  頼康頼元子四郎左衛門
  頼氏15411585頼康嗣頼元子大和仕徳川家康
  則直頼氏子伊左衛門大和
  直政則直子内蔵
  直明直政子内蔵
  昌直16521697直明子伊左衛門
直幸直政子
直次直政子
  頼龍頼元子弥次郎
  右衛門八頼龍子
  頼之頼為子頼元子?
  頼輝頼為子

知久頼為(易先)は誰の子?
頼為のところを見ると、尚を嗣いで頼為になったと書いてあるが、尚の子ではなく、四郎の子となっています。また、頼季の孫とも書かれています。四郎は、知久頼矯四郎のことで、曾祖父の関係になり、作為的な家系図に思えます。つまり養子。そうすると、頼為の通称の”易先”が気になります。・・・一体どこからの養子なのでしょうか。次の頼元を見ると、頼為の前の尚の子とあります。

参考:浪合記より ・・・杖突峠で、尹良親王が賊に襲われるところ・・・
「別本に、桃井、世良田政満(義政の兄、永享に出家)らが尹良親王をお抱えして飯田に着いたとある。ここで知久祐矯・小笠原政秀の忠功を賞して御剣と錦の御装束をお与えになった。二人はここより帰っていった。」知久祐矯は知久敦貞のことか。尹良親王の活動は、1400年前後のこと、小笠原政秀はまだ生まれていない筈で、小笠原家の南朝派は、羽場城(龍ヶ崎城)の小笠原重次郎だが、貞宗の四男だから、宗良親王の時代になります。別書に、南朝派に小笠原政季なる人物がいて、これとの誤記とも考えられます。後年に作った小笠原系譜では、北朝派・幕府側として不都合とされたのか、南朝派の末流は系譜からは抹消されているようです。とちらにしても浪合記は、ほぼでたらめで、歴史書としてよりも、戦記物語であるようです。。知久祐矯の方は、時代と適合し、南朝の歴史伝承とも符合している。

ここで、小笠原定基が関係する事歴の年表を下記す。

明応2年(1493)松尾定基は鈴岡政秀を松尾城に、子の長貞を名古熊に招いて殺害(知久氏と連合で滅ぼす)
文亀元年(1501)尾張守護が遠江鎮圧のために松尾定基と子の貞朝に出兵を要請
永正3年(1506)北条早雲の要請に応えて松尾定基が三河に出兵
天文2年(1533)府中長棟が伊那谷に侵入し知久頼元が戦う(松尾定基は甲斐へ?)
天文3年(1534)府中長時の弟の信定が鈴岡城主となっている
天文12年(1543)武田晴信(後の信玄)が伊那谷と佐久の両面侵攻作戦を開始
天文14年(1545)晴信が高遠城征服、伊那郡福与城征服
天文19年(1550)晴信が府中を攻撃し深志城を築く
天文21年(1552)晴信が安曇郡小岩嶽城の攻撃で府中長時・貞慶を追放。
天文21年(1552)長時は上杉に2年間滞在していたが、
天文21年(1552)弟の鈴岡信定の家臣(溝口長勝)に迎えられて松尾城または鈴岡城に
天文23年(1554)晴信が松男信貴(定基の孫で信玄に降伏しその家臣となる)を先鋒にして伊賀良に侵攻、

天文23年(1554)鈴岡信定は(府中長時と)下条から駿河・伊勢へ(後に桂川の戦いで討ち死)。
天文23年(1554)宮崎・坂西・松岡・分家知久氏は「松尾の牛草坂の地」で協議し、武田に属す。

松尾の小笠原定基(光康の孫)が鈴岡の小笠原政秀父子を誘殺し伊賀良を掌握したが、小笠原家の正統性を示す書を下条家から奪えず、そのため守護にはなれなかったようだ。この時の信濃国守護は上杉房定が兼任している。。定基は勢いのまま、伊那地方制覇に奔走する一方、しばしば伊勢宗瑞(北条早雲)から要請され三河国に出兵し、更に遠江の大河原貞綱にも頼られ出陣している。隣国の要請は多く、定基は遠江や三河へ遠征をしている。この遠征は、報償を伴わず、その度重なる動員で、主力兵力の伊那地方の農民社会が崩壊し貧窮化する。

○松尾・小笠原定基は、尾張守護斯波義寛の要請に応じて遠江に遠征、今川氏親と戦った。
○北条早雲の要請に応じて、三河へ出兵。渥美半島の田原城の戸田憲光と今橋城(吉田城・豊橋市)の城主である牧野古白と戦っている。
○永正三年(1506)から十年までの間の三月、駿河守護の今川氏親が小笠原定基へ書状を送り、三河の戸田憲光兄弟が敵方に内通したが、協力しないようにと依頼してい ます。

参考・北条早雲から小笠原定基に当てた書状
・・・「雖未申通候、以事次一筆令啓上候、仍関右馬允無御等閑之由被申越之間、自早雲以一札被申述候、太刀一腰令進覧候、巨細猶重可申入候間、不能具候、恐惶謹言、・・九月廿二日・・弾正忠盛泰(花押)・・謹上 小笠原左衛門佐殿 御宿所」・・・「伊奈盛泰書状」(小笠原文書)永正三年(1506)に比定。・・・*伊奈盛泰は北条早雲の重臣。
・・・「いまだご挨拶しておりませんでした。この一筆をもって啓上いたします。関右馬允が等閑ないようにと連絡してきましたので、早雲より書状をもって申し述べられます。太刀一腰を進覧します。状況は更に重ねて申し入れますので、詳しくは申せません。以上謹んで申し上げます。九月二十二日、弾正忠盛泰(伊奈盛泰)小笠原左衛門佐殿 御宿所」

一見奇妙に思える北条早雲と小笠原定基の関係は、近年の研究で、「伊勢盛時(北条早雲)も申次衆の1人であったと考えられている。さらに、早雲の正妻は、京都小笠原氏の女であった」が顕かにされ、更に文面の定基家臣”関右馬”は、伊勢出身で早雲と関係がある人で、松尾と北条は関係が深いことを暗示し、誼を結ぶことを提案している。定基の方からの早雲への思いを伝える書状は発見されていないが、出兵で応えているところを見ると、定基も北条に誼を感じていたのではないかと推測出来る。

松尾小笠原氏は、鈴岡小笠原氏を攻めて、事実上これを滅亡させた。このため、小笠原の惣領職は,松尾となるべき所、正統なる嫡流を証拠立てる書類を奪えず宙に浮いてしまった。府中・長朝の時期には平静を保っていた。長朝は永正十二年(1515)六月に亡くなり、長棟が跡を継承している。しかしながら、松尾・小笠原定基は、周囲・隣国・幕府からは、実力を認められており、援軍の依頼を受けており、関東管領の上杉家との関係も悪くなく、注目される存在であったようだ。

大永五年(1525) 諏訪上社大祝諏訪頼満と下社大祝金刺昌春の戦が繰り返され、昌春の拠る萩倉要害が自落して、金刺昌春は甲斐国の武田信虎を頼って落ち延びた。

○天文元年(1532)、松尾・小笠原定基が下条氏を攻めた時、府中・小笠原長棟は下条氏を支援します。松尾・定基が下条氏を攻めたのは、小笠原家の正統な継承者を示す文書を下条氏が保管していたので、それの争奪するためだったようです。鈴岡政秀の室は、その書を実家の下条家に預け、自らの身は府中小笠原家の保護の許に逃れていました。
○天文二年(1533)七月、長棟は五百騎ばかりで伊那に着陣して、知久頼元や高遠頼継の軍勢と戦って勝利し、八月に頼継と会見する。その後、長棟は府中に戻ったが、八月に再び伊那に出兵。この一連の軍事行動で明らかなように、当時の府中小笠原氏はその勢力を下伊那にまで及ぼそうとしていた。
○天文三年(1534)前後、長棟はついに松尾小笠原氏を圧倒し、政秀伝来の小笠原文書をも手に入れて信濃守護になり、松尾城には次男信定を置いた。
・・この時、松尾の定基は、甲斐の武田の元に逃避している。

・・こうして、府中・小笠原長棟によって、長きに渡る小笠原家の内訌は終止符を打ち、府中小笠原氏は府中を中心に安曇郡と筑摩郡、それに伊那郡を押さえ、守護職も手に入れたのです。府中小笠原氏は戦国大名への道を歩み始めた。

天文六年(1537)、諏訪氏と小笠原氏の関係は良くなかった。諏訪頼重の軍が塩尻に攻め寄せ、赤木・吉田の辺にまで放火しました。そして、十月には塩尻の城を、頼重の軍が攻め落とした。諏訪氏に呼応して、薄川の谷沿いを領する山家氏は、この年に小笠原氏と戦っています。
知久氏は、小笠原家の内紛では松尾小笠原家の小笠原定基に属したが、定基の没落後は諏訪氏を後ろ盾として府中小笠原家と対峙することになる。

天文12年(1543)武田晴信(後の信玄)が伊那谷と佐久の両面侵攻作戦を開始。風雲は急を告げる。

小笠原家の内訌・・・以上