探 三州街道 

伊奈備前守、高遠保科家、信濃国など室町時代・戦国期の歴史。とりわけ諏訪湖と天竜川流域の歴史の探索。探索者 押田庄次郎。

伊奈忠次(関東代官頭)の伊奈の由来!?・・・

2013-10-10 10:38:21 | 歴史

伊奈忠次(関東代官頭)の祖先が、どこにいたか?・・・

伊奈忠次の祖先・・五代前(六代前の説もある)荒川易氏と長男易次・次男易正が、信濃国のどこにいたか、かってこのブログで推論を書いたことがある。

・・・荒川易氏が信濃に来た経緯・・引用・たぶん吾妻鏡からだと思うが・・・

・荒川易氏のとき、将軍足利義尚から信濃国伊那郡の一部を与えられ、易氏の孫易次の代に伊奈熊蔵と号した。易次は叔父の易正との所領争いに敗れて居城を奪われたため三河国に移り松平家の家臣となった。その子忠基は松平広忠・徳川家康に仕えて小島城を居城とした。
易氏は太郎市易次を伊奈郡熊蔵の里に、次男易正を保科の里に住まわせた。太郎市易次没後は、子金太郎が幼少のため、叔父易正が後見人として管理、金太郎易次が成人後も返却しないため、金太郎易次は抗争を避けて祖先の地の三河で浪人、伊奈熊蔵易次と称した・

この文章の、次男易正が保科の里に・・の方は、想定できたが、長男易次の熊蔵の里の方はどこなのか、一向に想像がつかなかった。無理矢理に”熊城”とか”神稲 ”に読み替えて、想定してみたが、しっくり納得のいくものでは無かった。

そもそも、このブログ自体、家康から信頼を受けた、「治水のテクノラート」官僚の、関東郡代頭伊奈熊蔵忠次の伊奈家と、三代将軍家光の弟で、将軍を補佐しながら、数々の秀逸の政策を実行した保科正之の保科家が、五代前ぐらいで繋がっていたとなるとかなり興味深いと思って、始めた訳である。
そして、保科正直を調べ、その前の保科正俊・槍弾正・を調べれば、手がかりが掴めるのではと思ってみたが、正俊のところで、乱れた保科の乱流を整理した、とあるように、手がかりが掴めずに頓挫している最中であった。

数日前、結城陣番帳を、何となく読んでいる時に発見した。
以下、結城陣番帳・・・

 

--------------------------------------

--------------------------------------



・・・結城合戦とは、永享九年(1437)、関東管領上杉憲実と鎌倉公方足利持氏の対立と戦いのことで、対立から上杉憲実は領国の上野に引き上げ、持氏は憲実征伐の軍を発したため、永享の乱が起こった。幕府は上杉関東管領を支援して、持氏公方側は敗退した。これには遺恨が残り、公方側は結城城に集結して幕府反旗を顕し、幕府側は憲実の弟、上杉清方を主将にし、援軍の大将に小笠原政康をあて、小笠原信濃軍を三十組に組織して矢倉の番と結城城包囲を行った。・・・この三十組の区分けを結城陣番帳という。
この三十組は、大身は単独で、小身は複数で組みをなして、一組百騎の三十組、三千騎余りの軍勢であったという。

参考・・・・・

騎と雑兵                                               

通常、騎は馬に乗れるぐらいの武将の事で、豪族には何騎かの武将が付いていた。
戦があると、豪族は、例えば五騎の家臣を連れて、戦場に赴いた。このとき、戦
場で ひと旗揚げようとする者が付随していく場合が多く、これを雑兵とよんだ。
雑兵は一騎に対して十人前後が普通であったが、利のなさそうな戦いには激減し
てしまい、人数の決まりはない。また雑兵は略奪目的の強盗団まがいもいたらしい。

領主と家臣の数の関係                                      

戦国時代、領主は家臣に縁を与えるという、生活保障の義務がある。従って、経済
規模により 、家臣数は限られてくる。通常は、一万石領主は二百五〇人の家臣を持
つ経済的余力があると言われる。例えば、千石領主は小豪族で、家臣数は二十五人
となるわけである。戦国時代の騎と家臣は、ほぼ等しい相関関係がありそうだが、
契約上の決まりでもなく、目安として 規模を想定できる。


これを見て分かることは、誰が大身で誰が小豪族かと、グループの繋がりの意味である。諏訪神党も、南朝に与したものと離れたもの、小笠原も、松尾小笠原を総大将にして、松本組、大井組に分かれ、あとは地域分類である。現在の地区名を冠らない小豪族は、まことに興味深い。

さて、注目したいのは、”十八番”と”二十八番”であります。両番とも、近在の地域の括りのようであるが、断定できるほど古地名への知識は豊かではないのですが。

十八番 永田殿・・用は田の誤記か、二木殿、竹田殿、熊蔵殿、西牧殿・・坂は牧の誤記か・・。
・・調べると、筑摩郡山形村の中に、大池、小坂、竹田とあります。また、南安曇野郡三郷村の住吉は、昔近府春近荘という院御領であり、二木という豪族が居たと言います。 また安曇郡西牧の地には二木同族の西牧氏がおり、また松本の島立付近に永田があります。高家熊倉は豊科の、梓川と犀川が合流する辺りです。・・この地区は、かって近府春近荘園と呼ばれていた時代もありました。戦国時代から以前は、この地は松本(=府中)小笠原家と木曽家と仁科(大町)家に隣接する緩衝地帯でありました。この中の二木殿は、赤沢、平瀬とともに、松本小笠原家の重臣で、後の世に家伝古書を残しています。

・・・・・場所は、今の松本や、塩尻に隣接する地域で、北アルプスの入口に当たるところです。

このグループに熊蔵の名前が登場しています。蔵と倉で若干違いますが、歳月が過ぎて、ほぼ同じ意味の字なので、倉に変わったのでしょう。高家熊倉という、いかにも荘官を意味しそうな地名と豪族です。


二十八番 保科殿、寺尾殿、西条殿、同名越前守殿は
寺尾殿は松代町東寺尾、西条殿は松代町西条、・・西条越前守は同場所、保科は長野市若穂保科で疑問のないところ・・・

・・・・・場所は、今の松代を中心にして長野方面に渡る地域です。

足利義尚が第9代将軍だった期間は(1473-1489年)で、終年の方では間に合わない。義尚将軍が中盤までに、荒川易氏は信濃に来たことになる。その立場も、諏訪神党や小笠原の有力家臣団との婚姻が結べるぐらいのものとなると、身分や地位は自ずと限定されてくる。足利幕府の荘園管理の荘官という立場は、これらの条件にかなうもとと推察される。
荒川易氏が将軍足利義尚に、信濃で領土を貰うとすれば、足利家管理の荘園が一番理屈に合いそうです。そしてこの地を拠点とすれば、自分の子の養子先を目の届く小豪族のもとにと考えるのも納得です。

こうして、伊奈熊蔵忠次の五代前の祖の荒川易氏は、子息二人を、地方豪族に養子に出すことになります。

長男は、荒川易次と言いました。古書に従えば、養子の先は、熊蔵の里です。熊蔵は豪族名でもあり、高家熊倉という土地名でもありました。だが、熊蔵家は歴史に露出が少なく、ほぼ謎に近い存在です。逆に辿れば、若穂保科の「保科家」同等ぐらいの小豪族ともいえるが、想像するしかない。

次男は、荒川易正と言いました。保科家は、長野の若穂保科と伊那の高遠近辺に存在しますが、この文明の頃には高遠地区にも、保科は若干散在していて、高遠家の代官をしていた保科家がありました。従って、次男が行った養子先は、長野近在の若穂保科とするか、高遠保科家とするか、判定に苦しむところとなります。・・・高遠家代官の保科筑前守貞親、高遠家と荘園経営で対立と争乱。・・・そして、易正が養子にいった保科家では困難が直ぐに襲ってきます。
若穂保科と余りと遠くない坂城という場所に、信濃四大将の一つ、村上一族が拠点にしていて膨張をしていました。境界を脅かされていた保科は、ついに保科の里を追われます。
保科正利が村上氏に敗れて伊那へ逃れ高遠に仕えたのではないかともいわれるが、具体的に伊那郡と高井郡との繋がりも判明していない。この移転説では、保科正利が、長享年間(1487~89)に村上顕国の侵攻により高井郡から分領の伊那郡高遠に走った、とされています。

保科家の、若穂保科から高遠までの間は、保科家に混乱が起こったようです。若穂保科を追われたのが長享年間(1488)で、高遠で保科の名を歴史書に確認できるのが永正年間(-1521)、
正利の子の保科正則の名前での小豪族の活動を確認できます。この約30年間が、謎に包まれています。若穂保科から追われて以来の、保科正利の名前は歴史から消えます。村上戦で戦死したのか、その後に死んだのか定かではありませんが、既に死亡していると思われます。

・・・・・「保科正利、没年1506年。」・・を発見していますが、出典を確認出来ておりません。ただ、歴史的背景からの状況は、この頃を指しています。正しいのではないか、と思います。

この、謎の30年間の間だと思われる出来事を記述します。保科正利のことではありません。養子にいった保科易正のことです。前述していますが、もう一度引用します。
・・・太郎市易次没後は、子金太郎が幼少のため、叔父易正が後見人として管理、金太郎易次が成人後も返却しないため、金太郎易次は抗争を避けて祖先の地の三河で浪人、伊奈熊蔵易次と称した・・・

保科易正は、保科の残党を引き連れて、熊蔵家に居候します。表面上は、兄熊蔵易次の幼少の嫡子金太郎の後見役としてです。数年経って、金太郎が元服しても、一族郎党を引き連れているため、熊蔵家を離れれば、浪々の身となるだけで悲惨な運命が待ち受けます。それで、金太郎易次の方が熊蔵家を離れることになります。熊蔵家が歴史的に再登場しないところを見ると、易正の主導で、熊蔵家の一族郎党が保科家に同化された可能性が浮かんできます。ここには保科正利の影が完全に消えて、保科正則が浮かび上がってきます。保科正則は、一体誰の子なのでしょうか。正利の子と易正の子の両方が、可能性としてありそうです。
荒川易氏の子息の兄弟が養子に出た時を、通常の婿養子と考えるなら、成人になってからで、年代と時代の辻褄は合いそうです。保科正則を易正の子供とした方が、年齢から見ると合理的で整合性があります。正則を保科正利の子として、若穂保科を正利と正則が一緒に脱出したとすれば、生年120歳を越えてしまいます。そのように記述してある歴史書は、一体何なんでしょうか。相変わらす、この部分の疑問は残ったままです。

以上のことを前提として、逆に荒川易氏が、信濃のどの辺りに赴任したかは、ある程度地域が限定できそうです。保科家や熊蔵家と意思疎通の関係が可能な地域で、仲介があるとすれば諏訪神党か小笠原家ということになり、立場はやはり、荘園の荘官あたりが、妥当と思われます。先述した、伊那と近府の春近荘園か、豊丘村にも荘園があったようで、この辺りかと思います。荒川家の末裔が伊那に拘って苗字を変えたところを見ると、伊那の荘園の方が・・・とも思います。

以上が、結城陣番帳をたまたま読み、熊蔵という豪族を発見して、以前に不明だったところを組み替えて、書き直したものです。

保科正俊は、隠居した晩年に、大日方家に入り浸っていたようです。正俊の娘の嫁入り先でもあるから、とも思っていたが、孫の正光に嫡子ができない時、まだ家光の弟の正之を養子に迎える前に、この大日向より”小源太”を跡目相続予定で養子に迎えています。かなりこだわりを感じます。・・・その時は何故なのだろうと思っていましたが、大日向の生坂村は、高家熊倉より、犀川を下って、直ぐそこです。・・・・・深読みでしょうが、気になります。

・・・未完