探 三州街道 

伊奈備前守、高遠保科家、信濃国など室町時代・戦国期の歴史。とりわけ諏訪湖と天竜川流域の歴史の探索。探索者 押田庄次郎。

保科正則の研究 ・・2:保科正則の系譜

2013-10-15 18:32:46 | 歴史

・・2:正則の系譜

保科正則の系譜

ここで系譜について、次の参考の文書を掲載する。
次代の保科正則の系譜についても同様に混乱が多く見える。


A1;その父を正利とするもの
 ・・・・・光利-正知-正利-正則-正俊-正直-正光=正之-・・・・・・『高井郡誌』
 ・・・・・光利-正利-正則-正俊-正直-正光=正之-・・・・・・『蕗原拾葉』

A2;大槻流・
 ・・・・・実俊-正員-正倍=易正-正則-正俊-・・・・・

 正倍五郎左衛門正信?
*易正正倍嗣荒川易氏子神助

B1;    正秀とするもの
 ・・・・・家親-貞親-正秀-正則-正俊-正直-・・・『百家系図稿』巻6、保科系図
   **正秀は易正のことであり、別称を弾正左衛門、あるいは神助とよぶ。
     この者が荒川四郎神易氏の二男から保科の養子に入ったとする。

*なお、この荒川氏は三河の伊奈熊蔵忠次の家につながるという系譜所伝があって、易氏は忠次の六代の祖といわれる。・・六代の祖は五代の祖?とも
さらに、この部分に、幾つかの混乱が見られる。(正利と正俊の取り違い、正尚の混乱、正倍の倍の誤記・・・などが指摘されている)

この三説をを考査すると、Aは長野若穂保科の保科の地を本貫とした「保科家」の系譜の流れで、保科正利までは、若穂保科に在したことを示し、以後の系譜が、高遠・藤沢で活動するまでが期間が長く、短略的であるという欠点を持つ。『高遠郡誌』と『蕗原拾葉』の違いは正知の存在に関わる。大槻流の方は、資料に人名を確認出来ず、信頼性が乏しい。Bの方は、もともと別の系流で、高遠・藤沢周辺に在した高遠家代官の系譜であり、鎌倉期に若穂保科から高遠に分流した可能性はある。だが、貞親-正秀の継承の部分の不連続生が、欠点となる。

つまり、戦国期に活躍した保科家の嫡流に付ける名前の正統性を誇示する「正」という通字の、連続性の問題である。上記の二系譜の流れは、どう見ても保科正則の前で合流したとしか思えない。証拠になるかどうかは分からないが、会津保科・松平家は幕末まで、若穂保科の広徳寺(=保科家の菩提寺?)と諏訪大社神官の守矢家に、書状と供養料を送っていたと、聞いたことがある。

 

易正、保科家に関する項 小笠原家関係家系図・・・

以下原文・・・参考 諸説

保科範実正定子正継孫正村曾孫正時玄孫正通耳孫盛正昆孫盛親仍孫実正雲孫実重裔大槻頼重流
実保
実行
実俊
正員
  正倍五郎左衛門正信?
  易正正倍嗣荒川易氏子神助

長直矢井忠長子清長孫桑淵光長曾孫常田光平玄孫井上家季耳孫太郎
長時
光利太郎
正知弾正秀貞
正利正知子光利子?正尚弾正易正?
正則正利子易正子?弾正筑前仕高遠頼継
  正俊15091593正則子弾正筑前「槍弾正」
  正直15421601正俊子弾正
  正光15611631正直子工藤祐元子?甚四郎肥後
正貞15881661正光嗣正直子甚四郎弾正
正英16111678正貞嗣小出吉英子
  正景16161700正貞子甚四郎弾正越前
正賢16651714正景子喜三郎正祥兵部

--会津藩家老家・西郷家の系流--
正重正直子正光養子勒負民部
  正勝正俊子隼人三河
  正近正勝子民部仕保科正之
正長正近子十郎右衛門
正興正長子近房嗣九十郎十郎左衛門民部
近房16371703正長嗣西郷元次子吉十郎保科頼母

・・・*人名の後ろの数字は生年と没年を表す。
--保科正則の子息正俊以外の系流--
正保正則子
正賢
正辰
正具

正信正則子?豊後仕上杉輝虎
正富正信子佐左衛門
盛信正富嗣正信子吉内主馬貞通有通
光有有澄(竹俣義秀)嗣白井景泰子長尾景盛保科十兵衛

--保科正利の正則以外の系流--
正長正利子左近仕村上顕国

--藤沢・保科代官家の系流--
家親
貞親筑前
正秀貞親子

守矢文書からの抜粋・・・
長光文明頃
長経桑井
光輝
信光

勝重小左衛門溝口(ママ市)左衛門

・・・なお、江戸幕府が各藩から家系図を提出させて作成したと言われる寛政重修諸家譜(寛政譜)というものがある。だがこれは、各藩の事情に依拠したところがあり、都合で削ったり誇張したり、あるいは作成したりして、信頼性が乏しく、B級資料として取り扱われる。保科家も例に漏れず、正則以前の乱流を整理し削除した上で提出したようである。赤羽記によれば、保科正俊の代に、乱流を整理したとの記述があり、正則以前が削られてない。