探 三州街道 

伊奈備前守、高遠保科家、信濃国など室町時代・戦国期の歴史。とりわけ諏訪湖と天竜川流域の歴史の探索。探索者 押田庄次郎。

保科正則の研究 ・・3:藤沢・保科家の代官時代

2013-10-17 22:30:33 | 歴史

・・代官寺代

藤沢・保科家の代官時代


まず、北信濃の保科の系譜は、系流の存在自体は、守矢文書と敵村上の文書から証拠が担保されると見て良い。個々の系譜については、資料の存在が見えず、信頼性を欠く。
大槻頼重流の系譜は、個々の人名についての資料が見えず、別名を持っていなければ、この系流は極めて信頼を薄くしている。
また、藤沢の保科家親系流の保科家は、歴史に確実に存在している。つまり、別流である。
この両者に、血縁があるかどうかの証拠はないが、後に合流をしたところを見ると、血縁の関係の可能性はかなり高い。


藤沢保科家が、諏訪神党(諏訪神族)の証拠は幾つかある。守矢文書の検証・・
保科家親
・・1;藤沢庄、代官保科家親、御符礼両度三貫三百 1 1 拾貫、貫三百文、使一貫文、
 ;孫六、御教書三貫三百文、頭役 1 左頭、・・・信濃資料叢書 第 2 巻 - 24P
・・2;(応仁元年(1467)御射山条)〇右頭、藤沢庄、代官保科家親、御符礼両度三貫三百文、使; !競御頭役二十貫文、八ケ年二当候、御符入申候之御頭二一度モ不』相○死去仕之間、罰ト申候。
  ;(長禄三年(1459)御射山条)頭役二十貫文、彼神使頭ヲ訴訟申候、御射山御頭 ...伊藤冨雄著作集 - 第 4 巻 - 113P
・・3;代官保科家親、御苻礼兩度三貫三百文、使^ ^ ;御頭伎一一拾貫文、八^年-當候、洱苻入申候葳、(伊雜揶)一左頭、^ 1 ) 1 :尉,御苻禮三貫三百文、御鋅本一貫三百文、使一貫文
 ;孫六、御書三貫三百文,頭俣一一拾貫、・・・信濃史料 - 第 8 巻 - 37 P
・・・・・ 恐らく1;と3;は同一の事だろう。保科家親は応仁元年(1467)あたりに活動していたと判断できる。子息の次男が死去・死因は不明。
・・4;家親 7 二男二月中二死去。一、右頭、藤澤庄、代官保科家親、御符禮兩度三貫三百文、使^・・・竹内秀雄, ‎神道大系編纂会 諏訪 - 32P

・・・・孫六は小笠原信濃孫六、小笠原宗滿のことか。保科孫六ではなさそう。貞宗三男坂西刑部少輔の子とか、

保科貞親
なし


保科秀貞


5;保科秀貞御符觼一貫八百文皮、祌邇難針事候、彼家中《下宮殿姬 1 一 7 候、一、十一月廿二日、御精進,初、權祝禰宜例式、具志野胡桃澤・・・大日本史料 - 第 8 部第 2 巻 - 4 P
6;保科秀貞御符礼一貫八百文、皮、 ...信濃史料叢書- 第 7 巻 - 142 P
・・・伊那郡)一擬重宮付成、内県介小坂初当候、西牧大県介、知久本郷宮付、西枚大県介、保科惣領、正月所"江御符入部、西牧信濃守満忠代初御符礼一貫文、扇八百、皮、知久少弼俊範御符礼一貫文八百、皮、帋三束、
・・・内県介小坂大県介柏原享禄三年(1530);天文三年(1534):内県介大熊宮付西牧大県介=西牧信濃守満忠;


保科貞親と高遠宗継の争い


1;高遠継宗と保科貞親との間に溝が生じ、誠訪氏の説得に継宗が従わなかったため文明十四年(1482)六月、藤沢,保科と誠訪政満が連合し、高遠継宗は笠原氏,三枝氏とともに戦った。後には藤沢氏と保科氏が争い、藤沢氏は小笠原長朝と連合 ...戦国大名・武田氏の信濃支配 - 19P 笹本正治
 ;また同年六月には、高遠城主诹訪(高遠)継宗と保科貞親が対立し、大^诹訪継満,千野氏らが和睦の斡旋を行なったが不鍋に終わった。このため政満は、軍勢を^遗して継宗を支援し、藤沢氏の援助も得て保科氏を#破している。このように政満は、诹訪氏の惣領 ...戦国人名辞典 - 552 P
2;花別舘信濃千野某、保科貞親等、諏訪催宗ト兵ヲ構フ、諏訪政捕・千野某等ヲ援ケテ兵ヲ出シ同固笠原二俄ヒテ、楼宗ヲ破ル・守蚕文要是月、甘婁寺親長二、軽服肪秩ノ侍臣宿番二侯スルコトヲ諮ハセ給フ・・・史料綜覧
 ;五四 1 是月廿露寺親長- 1、輕服觸穢ノ侍臣,宿番-ー候スルコトヲ諮ハセ野某等ヲ拨ケテ兵ヲ出シ,同國笠原-1 戦ヒテ,繼宗ヲ破ベ五四〇信浪千野某,保科貞親等,詉訪繼宗ト兵ヲ構フ,〇诹訪政滿,千三十日慕府,山诚勸修寺佾常林一一,其所領ヲ安堵セシム.・・・東京帝國大學. 史料編纂掛 - 1482P
・・・・・廿露寺親長・甘露寺(藤原)親長と勸修寺が出てくる。この寺の荘園でもあったのだろうか。この戦いに関与していた事例か?・・社寺執奏としての勸修寺家の権威か

藤沢在の保科家が、諏訪大社と深い関わりがある事跡を幾つか確認出来たようである。それと、どうも高遠家の高遠継宗の時代以前から、つまり保科家親から保科家は代官家であり、どうも、高遠家の家臣とは違う系統でありそうだ。伝承としてあるのは、南北朝時代に、南朝の宗良親王の御領を、保科が代官として管理したという伝えがあり、南朝の宗良親王の御領は、古書の絵図として残っている。恐らく、鎌倉期や南北朝期に、北信濃から時折流れた保科家の傍流が、南朝を支持して、諏訪家と共に宗良親王を守ったのであろう。この部分は想像だが、意外と確信を持っている。つまり、南朝派の荘園管理が、継ぎに諏訪神領の荘園管理を兼ねたのだろう。親王庇護の実務を任した諏訪家と保科家は、南朝支持派以来の同盟関係である。この保科家は、従って当初は高遠家の家臣ではないし、高遠家の代官でもない。というか、高遠家に荘園があった事実も、代官がいた事実もない。


時が経ち、世には応仁の乱が起こり、暫くして文明の内訌が始まる。”力”のあるものが、周りと一族郎党を支配していいような空気が世に蔓延し始める。時を同じくして、子息の相続が、土地の分割相続を危うくしてくる。何人かの弟に、分割する土地が底を付いてきたのだ。もし分割相続すれば、領地は細分化され、直ぐに小豪族に成り下がる状況になってきたのだ。そこで、小豪族になって弱体化する一族の力を保持する方法として、嫡子相続の方法が、必然として生まれる。弟たちは、跡目を継いだ家長の家来になるか、出家するという方法。このルールが定着するまでは、弟たちは納得がいかない。ここに下克上とか、内訌とか呼ばれる争いが、日本各地で発生するようになる。周辺の弱体化した小豪族も配下にして、領地を拡大しようとする争いが起こってくる。この争乱の流れの初期を、内訌とか下克上と呼び、全体を戦国時代と、人は名付けた。


諏訪家と小笠原家の内訌は、この戦国時代の幕開けの時に起こった。諏訪家の内訌のきっかけは、高遠継宗による荘園の強奪の野望であろうと推測する。戦国大名の多くが、この荘園を奪いながら、巨大化の武装集団に変貌していく様は、なにも、高遠継宗のみではない、戦国の常であった。立ちはだかったには、諏訪家神領の代官の保科貞親であった。この時の両者の力関係は、片方は高遠家領地対諏訪神領で、経済基盤は大差が無く、支持勢力の性格を見ればこの流れが頷ける。継宗の戦国志向派と神領・荘園の保守派、諏訪神官派の戦いであった。この時は、戦いは保科貞親が勝利した。


継宗と貞親の戦いが、荘園を巡る戦いであることは、貞親側にいた”孫六”が京都の社寺執奏としての勸修寺家へ赴いて、甘露寺(藤原)親長と勸修寺に訴えていることから証明できそうだ。ちなみに、”孫六”は小笠原信濃孫六、小笠原宗滿のことで、松尾小笠原の小笠原貞宗の三男の坂西刑部少輔の子。松尾小笠原は、以後諏訪上社と同盟関係になっている。
しかし、暫くして保科貞親は、高遠継宗と和解する。この部分は、何故だか不明。以後、代官の名前は消え、保科貞親の名前も挙がらなくなる。・・・・・継宗・貞親の戦いをきっかけに、諏訪家内部では、血で血を洗う諏訪家の文明の内訌が始まる。諏訪神党の重要な構成員の藤沢・保科家は、当然この内訌の嵐に巻き込まれたに違いないが・・・詳細は定かではない。そして、高遠家の家臣・家老になった時期も定かではないが、満継の時代に家老になった模様である。


この満継の時代も一筋縄ではいきません。高遠満継も諏訪家の棟梁を狙って、自らを諏訪某と名乗っており、幾つも名前を持っていたようです。更に、諏訪の内訌の最後の頃とも重なります。恐らく思惑が綾をなして、複雑にしているのでは、と思っています。次回に、保科正則が高遠に登場する、『蕗原拾葉』の「高遠治乱記」に基づいて、書いてみます。