探 三州街道 

伊奈備前守、高遠保科家、信濃国など室町時代・戦国期の歴史。とりわけ諏訪湖と天竜川流域の歴史の探索。探索者 押田庄次郎。

保科正則の研究 ・・4:高遠家の老中に!

2013-10-21 01:54:49 | 歴史

・・高遠家の老中に!

保科正則、高遠家の老中に!

*この高遠家は、鎌倉時代に発生した、木曽家傍流の高遠家ではなく、室町時代に発生した諏訪家傍流の高遠家のことであります。

守矢文書と保科秀貞
その前に、ひとつ確認しておかなければなりません。保科秀貞という人物のことです。前掲の保科の代官時代の項の守矢文書に、

6;保科秀貞御符礼一貫八百文、皮、 ...信濃史料叢書- 第 7 巻 - 142 P
・・・伊那郡)一擬重宮付成、内県介小坂初当候、西牧大県介、知久本郷宮付、西枚大県介、保科惣領、正月所"江御符入部、西牧信濃守満忠代初御符礼一貫文、扇八百、皮、知久少弼俊範御符礼一貫文八百、皮、帋三束、・・・

更に解説文に、
**風間郷にあった保科氏の名前が史料に見え、応仁二年(1468)に保科氏惣領を称する保科秀貞が諏訪神社の神使頭役を勤めて・・・信濃の保科氏の系譜 、とあります。

応仁元年(1467)に、藤沢の代官保科家親が、そして翌年の応仁二年(1468)に、北信濃風間の保科惣領の保科貞秀が、諏訪大社の神使頭役を、相継いで勤めています。このことは、北信濃の風間を拠点に若穂保科を含めた領分に、惣領を称する保科家が存在し、一方伊那の藤沢に、神領の代官の保科家が存在したことを証とします。

・・・文章の信頼性について、「守矢文書・諸日記」は、諏訪大社の神官長守矢氏が、その年の年末に、まず神使頭役のことから書き始め、その年の出来事を日記風に書き綴った古書であり、時を置かない事件の記述として、歴史資料の一級品であります。
・・・ちなみに所謂古書は、家伝記、戦記物等々、凡そ30年-50年前のことを後日に記載しています。室町時代の出来事を江戸時代に記載記録する例も多く、これでは、記憶違いや誇張や不都合部分の削除などがなされて、今日では事実と違う部分が多く指摘される場合が多いようです。

高遠の保科正則・・・赤羽記による

保科正則が高遠に初見するのは、高遠継宗の時代が終わり、満継の時代のようです。場所は、東高遠の北村という土地で二十石の所領の規模で、後に野底に七十石を加増されて、百石の小領主になりました。この頃、藤沢の保科家は、諏訪の内訌に巻き込まれて、一族も何割か戦死したのではないかと思われます。この藤沢・保科家も同族であり、この縁もあって、ともども保科一族として、先方衆として高遠満継に同盟したのではないか、と思われます。

保科正則の勃興、そして諏訪信定とは・・・?

「高遠治乱記では、永正年中(1504-1520)諏訪信定が天神山に城を構えて付近を領有 していた。天神山城には信定の子息を城主にして高遠一揆衆を治めた。」とあります。しかし、この時代の”通説”では、高遠満継の時代です。多少乱暴ですが、信定=満継とすると、ストーリーは整合します。諏訪信定(=満継)の性格も、「 是は生まれつき愚かなる故に諏訪にては立てず、是れ故、貰い立つるなり」とあり、満継の評価とも重なります。この信定については、諏訪家家系図の方には記載がなく、信広を諏訪頼隣とか、頼隣の子であるとか、が僅かに記録されています。本人も、高遠統治には余り関心がなく、あわよくば、諏訪家の棟梁を狙っていた野望を感じます。満継の時代、高遠はまだ藤沢の一部で、高遠城は山城で、鎌倉時代から高遠を名乗っていた木曽家の傍流が衰退しながらも存続していて、高遠一揆衆を構成していたと思われます。
高遠治乱記では、この時代に、信定(=満継)に反旗を翻した貝沼氏(富県)、春日氏(伊那部)を治め、さらに残存する木曽の傍流の領地を削りながら勢力を削いでいった経緯が記載されており、これらの反乱を治めるのに信定(=満継)に功績のあった保科正則に、報償として彼らの領地が与えられて、ついには高遠一揆衆の中で一番の大身になった、と記載されています。
高遠城は、この時期に、木曽傍流が追い出されて、諏訪家が天神山城から移って入り、満継亡き後に、頼継が継ぎました。これらの時、諏訪信定は、どうも高遠に定住してはいなかったようです。事ある時に、諏訪から出張してきて戦い、高遠を傀儡に預けて差配し、統治した模様が「高遠治乱記」に書かれています。恐らく高遠不在の信定のため、継宗から頼継への、満継が抜けた系譜説が浮上しているのだと思われます。諏訪の内訌は既に終熄して、諏訪頼重の時代に移っていても、野望は、燃え続けていた模様です。この野望は、高遠頼継に受け継がれていきます。

高遠という地名はこの頃に定着したと見てよさそうです。

・・・・・蕗原拾葉(赤羽記、木曽・高遠家廃興による)によると、保科正則は、小笠原の内訌に松尾小笠原家の援軍で参戦し、松本小笠原家との戦いで、1533年に、駒場において戦死したとの記載があるが、定かではありません。しかしこの頃に、正則を相続して、保科正俊が高遠頼継の家老として登場しているので、状況証拠としては信じるに足るのではないかとも思っている。正俊が1509年生まれとすれば、頼継への家老就任は、齢二十五歳の時となる。

この時の、頼継の他の二人の家老
・・・千村内匠は、木曽本家が、傍流の木曽系高遠氏を滅ぼした際に、木曽本家から送り込まれて、残存の木曽家領地と洗馬(塩尻)を拠点とした。
・・・上林入道は、旧東春近荘の富県辺りを領分とした。なお、上林入道の嫡子、彦三郎に、正俊の娘が婚姻しているので、彦三郎は正俊の義理の息子になる。彦三郎は文武に長けて、非常に優秀であったと聞く。

勃興する正則の保科家と衰退する秀親の藤沢保科家の合流

そもそも、藤沢保科一族は、鎌倉時代に頼朝の御家人なって鎌倉に勤めた後、北信濃に戻らず、前北条家の御身内になった諏訪家の近在に、三々五々にやってきて移り住んだのが始めとされる。
その後、室町時代になって、諏訪家が北条の遺子、時行を隠し育て、成年になった時、鎌倉幕府復活を期して、中先代の乱を起こし、さらに南北朝の対立の時に、南朝側に立った諏訪家の、宗良親王の経済援助の実務を、藤沢保科家が担ったことが、推測される。こうして、諏訪家の、神領の税務処理を担いながら、北信濃から流れ来る同族を、郎党に加えて、代官という足場を確立していたものと思われる。
しかし、諏訪系の高遠宗継の時代に、荘園の経営問題で、宗継と代官保科貞親が対立したが、これが南信濃のおける戦国化への先駆けとなる。その後、高遠宗継と保科貞親は和解したが、この次ぎに起こった、諏訪上社の大祝と惣領家の対立と争乱に、大祝側に味方して、巻き込まれる。大祝側には、下社金刺氏と高遠宗継が同盟し、宗継と同盟関係にあった松尾の小笠原家が、伊那の諸豪族を引き連れて援軍に駆けつけた。一方諏訪惣領家は、諏訪周辺の氏子の神党が支持し、相手に松尾小笠原が付いた対抗で、府中(松本)小笠原に支援を頼んだ。
この時の争乱で、藤沢保科家の貞親は、嫡子と次男を戦死させたことが書かれています。以後藤沢保科家は衰退の道を歩んだと思われる。

この藤沢保科家の貞親に養子に入ったのが、正秀と言われ、荒川易氏の次男易正の別名とされている。

・・・この養子相続の流れは、系図上の説明だが、保科易正が、下社金刺氏に援軍して、諏訪の内訌に関わったのではないか、と推論する。敗れた金刺氏は、武田信虎に保護を求めて甲斐に落ちる。金刺氏に同行したのは、易正の嫡子保科正則であった。・・・武田信虎の軍の中に、保科正則七騎あり、の痕跡を見るのはその為である。

その後、易正と正則は、安曇野の高家熊蔵に逃れ、易正兄の子の金太郎易次のもとに居候する。そして、北信濃から、村上一族に追われた保科惣領家と合流し、保科正利が、1506年に他界すると、易正は、保科惣領家の「正」を通字とする名前、正秀(正尚?)に改名して、兵力を整え直して、再び高遠に来て、保科惣領家の立場で、藤沢保科家を併呑したと言うのが推論である。

・・・この推論は、宗良親王の経済援助の実務の証拠は、「宗良親王が、藤沢谷の保科を頼った」と長谷の「宗良親王の領地図」が根拠だが、証拠としては薄い気もするが。
・・・保科易正、正則の推論の根拠も、「武田信虎の軍の中に、保科正則七騎あり」で、この七騎は、実名での記載でがあるがためで、これを根拠に推論に及んだ。