探 三州街道 

伊奈備前守、高遠保科家、信濃国など室町時代・戦国期の歴史。とりわけ諏訪湖と天竜川流域の歴史の探索。探索者 押田庄次郎。

諏訪家、あるいは諏訪神社の歴史 ・・1

2013-10-31 19:04:50 | 歴史

 ...1

保科家の続きを書こうと思ったら、諏訪家の歴史的出来事を押さえてからでないと書けなくなった。そこで、ひとまず保科家のことを置いて、諏訪家のことを調べて見ることにする。今日、図書館に行って、「諏訪市史・中巻」と「茅野市史・上巻」の取り寄せを依頼してきた。新たな事実が分かれば、書いてきたこと、書いていることの訂正と変更はあり得ると思います。

ここで言う諏訪家は、諏訪神社上社、下社、惣領家、の三者であり、高遠家は別家筋であるが、加えないようにする。

以下、諏訪家について・・・・・

諏訪家の文明の内訌と保科家

藤沢保科家を調べる場合、諏訪家の「文明の内訌」との関わりは避けて通りそうにない。そこで、文明期の諏訪家の状況の解析に向かうわけだが、この諏訪家が、神官家と言うこともあり、現代の常識からは少し離れていて、複雑怪奇で入り乱れ、できれば立ち入りたくはないが、ここを避ければ、保科家の理解が遠のくので、あえてカオスに手を突っ込むことにする。

その前に、諏訪家の歴史に、少しだけ触れておく。

諏訪家、諏訪大社の大祝を務めてきた一族である。その血筋は祭神・建御名方命の血筋を称しながら極めて尊貴な血筋としてとらえられた特異な家系といえる。諏訪家は武士と神官双方の性格を合わせ持ち、神社の神官である、一方ごく一般的国人領主である。しかし、神官としては信濃国及び諏訪神社を観請した地においては絶対的神秘性をもってとらえられた。祭神の諏訪明神が軍神であることから、古くから武人の尊崇を受けていたことも大きく影響している。故に諏訪神社の祭神の系譜を称し、諏訪神社最高の神職たる大祝を継承し、大祝をして自身の肉体を祭神に供する体裁をとることで、諏訪氏は絶対的な神秘性を備えるようになったといえる。

平安時代には、神官であると同時に武士としても活躍し、八幡太郎義家が出羽の清原氏討伐のため後三年の役に介入すると、大祝為信の子である諏訪為仲が源氏軍に加わったという。大祝は祭神の神託により身体に神が宿るとされ、代々正一位の神階を継承する。そして、源平合戦の折に、大祝がどちらに味方するか考えていたところ、祭神が夢に現れて手に持っていた梶の葉の軍配を白旗のある方向へと振り下ろしたことから、諏訪氏は源頼朝に味方する。以来、諏訪氏及び諏訪大社を尊崇する氏子は梶の葉を家紋にしたという逸話がある。

鎌倉・南北朝時代・・・鎌倉時代の当初は幕府御家人だった諏訪氏も幕府の実権を握った北条得宗家の被官となり、全国に諏訪神社が建立されることとなった。幕府滅亡後の1335年には、諏訪頼重・諏訪時継が北条氏の残党が北条時行を奉じて挙兵した中先代の乱に加担するなどした。

南北朝時代の頃から武力を持つようになり、諏訪円忠は後醍醐天皇の建武の新政で雑訴決断所の成員を務め、建武政権から離反した足利尊氏に従い足利幕府の評定衆や引付衆などを務め信濃国に住する将軍直属の奉公衆としても活躍した。

・・・というのが、大きな諏訪家の流れであるが、経済的基盤から眺めると、次の様になる。

まず、平安期には諏訪大社は、広大な社領・荘園(=神領)を持っていた様であるが、資料としては残存していないようだ。鎌倉時代になると、藤沢与一盛景が、諏訪の神領で納税を怠り、さらに諏訪大社の神事を妨げたことから、幕府へ訴状がなされた。この時に正式な諏訪神領が無かったため、頼朝から、改めて知行されて、併せて藤沢谷の藤沢盛景に諏訪大社への協力が命じられている。また、幾つかの契機から、諏訪家は、頼朝時代の後の、北条得宗家の時代は、得宗家と蜜月の時代をつくり、御身内の関係になり、特権を利用しながら、膨張していったものと思われる。この頃はまだ、諏訪神族の領主は、諏訪大社の神事に対して、莫大な奉納が行われて、諏訪大社を中心とする諏訪家は経済的に豊かであった。

建武の新政が起こると、諏訪家は、北条の遺子を隠し育て、遺子の北条時行が成人すると、時行を押し立てて、中先代の戦いを起こす。経緯から、諏訪家は、中先代の軍の中核であった。建武の新政がなった後、主役の後醍醐天皇と足利尊氏は反目し合うようになり、北朝を傀儡で立てた尊氏と南朝の後醍醐天皇が、天下を二分する長い戦いに入る。諏訪家は、反幕府の立場は一貫していて、北条残党と共に南朝側に付く。信濃は、南朝側の征東将軍の宗良親王の拠点になる。

この時、諏訪家の経済基盤で何が起こったのだろうか。鎌倉幕府が倒れて、室町幕府ができると、鎌倉期に貰っていた諏訪家の特権は無に帰する。諏訪の神領もしかり。さらに、戦乱で明け暮れして荒廃する諏訪神党の各領主も疲弊してくる。諏訪大社の神事どころではなくなる。こうしてかっての大社の神事への奉納は、名目から半減以下になる。支える諏訪神党の領主の家の廃絶も、起こってくる。
まず、これに耐えられずに、反幕府の南朝側から脱落したのが、諏訪下社の大祝金刺家であった。

・・・と、ここまでは、解説書に書かれた通説である。

中世の諏訪・伊那地方に詳しい人には冗長な文であることは確かなので、お許し戴きたい。この地方の歴史に詳しくない、一般の人には、諏訪家一族の特徴が垣間見えるのではないかと思う。それは、鎌倉幕府の北条得宗家と諏訪家は、親戚同様な関係であったこと、その関係から、室町幕府の当初は、幕府に反目する立場であったこと、北条側残党の多い信濃では、諏訪家がその中核であり、幕府側の信濃守護の小笠原家と対立する立場であったこと、宗教を奉じる諏訪家が、寺が武装して僧兵を持つように、神社が武装して神兵を持つに到ったこと、この過程で、諏訪神族が戦国大名化して、一族の棟梁たらんとする覇権を争い、内部分裂していったこと。同じような戦国大名化の流れで信濃守護の小笠原家も一族の覇権争いが発生し、諏訪家と小笠原家は、双方の対立軸が同盟し、信濃国全体の分裂と対立を生んでいったこと、等々が極めて特徴的なことである。

この諏訪家衰退の危機を救ったのが、諏訪家中興の祖と言われる、諏訪円忠であった。またの名は、小坂円忠。この人は、かなり優秀であったらしい。幕府と反目する諏訪家の一族でありながら、当時の名僧、夢想国師の勧めで、足利尊氏は、円忠を幕府の役人に任命した。役割は当時頻発する領土問題・境界のトラブルの裁判官に、である。ここで力を発揮した諏訪円忠は、諏訪家のかっての特権を復権する。諏訪家の神領と言われる荘園は、その中心的課題であったと思われるが、それを証する資料は無い。同時期に、他の神社に神領を知行する例を参考にすれば、通常は、幕府は、上社大祝に対して、藤沢荘を神領として下されたのであろう。

従って、藤沢荘の代官の保科家親・貞親は、主人が上社大祝と言うことになる。高遠継宗は、代官保科家の主人ではあり得ない、という結論になる。