探 三州街道 

伊奈備前守、高遠保科家、信濃国など室町時代・戦国期の歴史。とりわけ諏訪湖と天竜川流域の歴史の探索。探索者 押田庄次郎。

保科正則の研究 ・・5:保科畠と墓のなぞ

2013-10-23 23:49:23 | 歴史

・・謎の部分

保科正則の時代とその前の時代に、まだ手つかずの「謎」が残されている。

その一つは、保科貞親時代の保科畠・・であり、いま一つは多古にあるという、保科正則の幻の墓のことである。

武居城・・片山古城ともいう

諏訪盆地周辺に、武居城の名をもつ古城は、二つが確認される。洗馬の武居城と諏訪の武居城である。洗馬とは、今の朝日村のことで塩尻市の領域とするところ、鎌倉時代末期、洗馬荘に新補地頭として入って来た三村氏が築いた城で、その後は、小笠原氏や武田氏が防衛や監視に利用したようである。今回のテーマは、ここではなく、諏訪の武居城の事である。

諏訪の武居城(片山古城)・・諏訪市中州神宮寺

武居城は諏訪大祝の居館である前宮と上社本宮との間に位置する。元徳2年(1330)、諏訪五郎時重が鎌倉幕府最後の執権北条高時の婿となり、信濃一円に勢力を拡大して、ここに居館を構えた。 その3年後、新田義貞の鎌倉攻めにより高時と共に鎌倉で自害。その後の城主は不明となる。・・・これが城の成立の由縁。

諏訪家、文明の内訌の大祝の拠点

文明15年(1483)諏訪大祝継満は惣領家を倒して祭政二権を握ろうとしたが、失敗して高遠に 逃れ、翌文明16年(1484)、小笠原正貞・高遠継宗に助けられて再挙して諏訪に侵入し、廃城になっていた武居城を改修して、干沢城と 対峙した事が記録に残っている。武居城は干沢城と共に諏訪大祝家にとって重要な城であったことが窺われる。・・・この城山の北の中腹標高840m付近が武居城の居館跡と伝えられ、「保科畑」と呼ばれる地が残る・・・

さて、武居城の居館跡と伝えられ、「保科畑」と呼ばれ地の、どのように解釈したらいいのだろうか。保科畠は、昔、保科館があったが廃して後に畠となった、というのが素直な理解であり、諏訪祝家と保科家の綿密な関係が想像される。前項では、保科家は、高遠家の家老になる前は、諏訪家の神領を預かる代官だったのではないか、と推定して、高遠宗継と保科貞親の対立にことを書いたが、武居城の居館の主人が諏訪満継とするのは確かで、もし武居城郭内の居城に、諏訪満継と保科貞親の居館が、隣接していたとなると、諏訪家の経済基盤の支柱としての保科家の性格が明確になる。そして・・・戦国時代の幕開けは、中世の荘園制の崩壊の、表の物語でもある、という。この保科家とは、保科家親、貞親の藤沢保科家のことである。

そしてこの時は、保科正則の系流が、まだ藤沢保科家に合流する前の物語でもある。

 

さて次は、保科正則の”幻の墓”のことである。

・・・偶然に、千葉県匝瑳市の「市史こぼれ話」を目にする機会があった。
そこに「ひっそりと立つ保科正則(左側)夫婦の墓の写真と文章をみつけた。
匝瑳市では、多古城には正光・正直親子は来ても、祖父の正俊、曾祖父の正則が多古に移り住んだことは不明とし、半信半疑で、墓とは断定できず、保科家が敬虔な日蓮宗徒であることから、飯高寺化主日潮が供養塔として建てたのであろうと推定していた。
・・法華寺;[寺院];千葉県八日市場市(現・匝瑳市)飯高571;正則夫婦の墓・・・

さらに、こんな文章を見つける。

・・・「保科正之のすべて・・宮崎十三八」

多古時代の保科の家歴(没と任官)
保科正光 1590 多古入封 家督相続
保科正則 1591 卒 法名祥雲院
保科正俊 1593 卒 法名不詳
保科正光 1593 従5位下 叙勲 肥後守任官
保科正直 1601 卒 法名天関透公 建福寺埋葬
・・ 家督相続(相続披露&届け出→家康)から叙勲・任官まで3年

上記は多古城時代の保科家の戦役を除いた出来事である。
から拾って書いた。高遠以来の家臣からの聞き取りによる・・・とある。

戦国の時代、数奇な運命で数々の戦乱を生き抜いた保科正則は、会津松平家の初代正之から玄祖父にあたる。。だが正則の墓は、高遠建福寺にはない。会津に善龍寺という寺がある。保科の会津移封に伴い、千葉の多古から移転させたそうだ。
だが、善龍寺には保科家の元祖・保科正則の位牌はあるが、正則の墓はないようだ。・・・保科正則は1591年に多古城で死んだことになっている。

保科正則と正俊については、まだ謎が多い。この親子関係も、諸説が存在しているのも事実だ。だが、とりあえず、保科正則と正俊が親子関係であり、さらに保科正俊が1509年に生誕した定説を、正しいことと仮定してみると、当時の長男は、父親が二十歳ぐらいの時の子であると想定するのは、極めて常識的な想定で、そうすると、保科正則の生誕時期は、1490年頃となる。そうすると、多古で、正則が亡くなったとすれば、102歳という高齢になる。これは、高齢過ぎて説得力がない。また他説に、小笠原家の内訌に巻き込まれて、松尾小笠原に援軍して、1533年に、駒場で戦死した説は、生涯を44歳として、当時の年齢からは合理性があるように思う。正則が戦死した後、正俊が跡目を継いで、高遠頼継の家老として登場する時期とも一致するので、辻褄としても正解に思う。・・・正則と正俊の年齢差を20歳としたのは暫定であるので、+-のアロアンスは各自で御願いする。この多古で死んだとされる正則とは誰なのか?・・・疑問はのこったまま

上記のように、保科正則の生誕時期が、1490年頃と想定出来るので、北信濃の若穂保科から、保科正利が村上一族に追われて、伊那の藤沢に逃れた時、正則はまだ生まれていなかったのではないだろうか、という推測ができる。この部分も諸説有り、保科正利一人が逃れた説、正利と正則が逃れた説、とあるが、もし後者であれば、保科正則は、前期正則と後期正則の二人が存在しなければ、辻褄が合わなくなる。・・・この部分は、相も変わらず、謎のままである。

 

 

 

 

 

 

 

 




 



最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。