・序章
保科正則は、謎の多い人物であります。と言うよりは、正則の父と言われる人物が、諸説有り確認されておらず、従って正則の幼年と晩年に資料が乏しく不明となっております。ようやく、壮年の頃に、歴史上に登場し、この時に戦国期と江戸時代を生き抜いた名門「保科家」の基盤を創ったことだけが確認されております。
・・・保科正則-保科正利-保科正直-保科正光=保科正之・・<会津松平藩>・・松平容保・・ |-飯野保科藩・・・・・
保科家系譜の中で、保科正則以前・・が謎に包まれています。また、保科正之は、徳川三代将軍の家光の弟で、経緯があり保科家の養子(・=)になり、やがて会津松平家の祖になりました。以後正之は、将軍家光を補佐し、四代将軍の家綱を後見しました。この幕政参画の時の政策は、後世から極めて高い評価を受けています。会津藩は三代目の時、親藩筆頭の家柄から親藩の証の苗字、松平に変更されます。この時に、名門「保科」の名前と血筋が途絶えることを惜しんで、保科正直と家康の妹多劫姫の間に出来た子の保科正貞をして、飯野保科藩を作り、初代藩主に据えます。保科家は、こうして継承されます。
・・・多劫姫・タケヒメ、と読むのだそうです。飯野保科藩・千葉県富津市に確認出来ます。
次回からは、保科正則に的を絞って、見ていこうと思います。