探 三州街道 

伊奈備前守、高遠保科家、信濃国など室町時代・戦国期の歴史。とりわけ諏訪湖と天竜川流域の歴史の探索。探索者 押田庄次郎。

諏訪の乱 改訂 一回目 

2014-05-30 17:55:54 | 歴史

 

諏訪の乱 改訂
 一回目
  諏訪家、あるいは諏訪神社の歴史 ・・1
  諏訪家、あるいは諏訪神社の歴史 ・・2

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◆ 諏訪家、あるいは諏訪神社の歴史 ・・1
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諏訪家、あるいは諏訪神社の歴史 ・・1
2013-10-31 19:04:50 | 歴史 ...1

ここで言う諏訪家とは、
諏訪神社上社、、
諏訪神社下社、
諏訪惣領家、
高遠諏訪家、
の四家のことで、興亡に深く関わるのが、保科家、坂西家、守護小笠原家、北条得宗家、南朝宗長親王・尹良親王親子と言うことになる。

諏訪家の文明の内訌と保科家
藤沢保科家を調べる場合、諏訪家の「文明の内訌」との関わりは避けて通りそうにない。そこで、文明期の諏訪家の状況の解析に向かうわけだが、この諏訪家が、神官家と言うこともあり、現代の常識からは少し遠くて解りずらい。ここを避ければ、保科家への理解が遠のくので、あえて絡んだ糸をほぐしてみる。

その前に、諏訪家の歴史に、触れると・・・
諏訪家、諏訪大社の大祝を務めてきた一族である。その血筋は祭神・建御名方命の血筋を称しながら極めて尊貴な血筋としてとらえられた特異な家系といえる。諏訪家自体は武士と神官双方の性格を合わせ持ち、神社の神官である、一方ごく一般的国人領主である。しかし、神官としては信濃国及び諏訪神社を観請した地においては絶対的神秘性をもってとらえられた。祭神の諏訪明神が軍神であることから、古くから武人の尊崇を受けていたことも大きく影響している。故に諏訪神社の祭神の系譜を称し、諏訪神社最高の神職たる大祝を継承し、大祝をして自身の肉体を祭神に供する体裁をとることで、諏訪氏は絶対的な神秘性を備えるようになったといえる。

平安時代には、神官であると同時に武士としても活躍し、八幡太郎義家が出羽の清原氏討伐のため後三年の役に介入すると、大祝為信の子である諏訪為仲が源氏軍に加わったという。大祝は祭神の神託により身体に神が宿るとされ、代々正一位の神階を継承する。そして、源平合戦の折に、大祝がどちらに味方するか考えていたところ、祭神が夢に現れて手に持っていた梶の葉の軍配を白旗のある方向へと振り下ろしたことから、諏訪氏は源頼朝に味方する。以来、諏訪氏及び諏訪大社を尊崇する氏子は梶の葉を家紋にしたという逸話がある。

鎌倉・南北朝時代・・・鎌倉時代の当初は幕府御家人だった諏訪氏も幕府の実権を握った北条得宗家の被官となり、全国に諏訪神社が建立されることとなった。鎌倉幕府滅亡後の1335年には、諏訪頼重・諏訪時継が北条氏の残党として、北条時行を奉じて挙兵した中先代の乱に加担するなどした。南北朝時代の頃から武力を誇示するようになり、信濃国での、北条残党と続いて南朝側の中心的な役割を果たした。一方で、一族の諏訪円忠は後醍醐天皇の建武の新政で雑訴決断所の成員を務め、その後も建武政権から離反した足利尊氏に従い、足利幕府の評定衆や引付衆などを務め、将軍直属の奉公衆としても活躍した。要するに一族の二律背反的な動向で、時を経るに従い背反は大きくなり、内訌の要因の一つになっていく。
・・・というのが、大きな諏訪家の流れであるが、経済的基盤から眺めると、次の様になる。

まず、平安期には諏訪大社は、広大な社領・荘園(=神領)を持っていた様であるが、裏付けの資料としては乏しい。鎌倉時代になると、藤沢与一盛景が、諏訪の神領で納税を怠り、さらに諏訪大社の神事を妨げたことから、幕府へ訴状がなされた。この時に正式な諏訪神領の認めの書が無かったため、頼朝から、改めて知行されて、併せて藤沢谷の藤沢盛景に諏訪大社への協力が命じられている。また、幾つかの契機から、諏訪家は、頼朝時代の後の、北条得宗家の時代は、得宗家と蜜月の時代をつくり、御身内の関係になり、特権を利用しながら膨張していったものと思われる。この頃はまだ、諏訪神族の領主は、諏訪大社の神事に対して莫大な奉納が行われて、諏訪大社を中心とする諏訪家は経済的に豊かであったという。

建武の新政が起こると、諏訪家は北条の遺子を隠し育て、遺子の北条時行が成人すると、時行を押し立てて中先代の戦いを起こす。経緯からして、諏訪家は中先代の軍の中核であった。建武の新政がなった後、主役の後醍醐天皇と足利尊氏は反目し合うようになり、北朝を傀儡で立てた尊氏と南朝の後醍醐天皇が、天下を二分する長い戦いに入る。諏訪家は、表面的には反幕府の立場は一貫していて、北条残党と共に南朝側に付く。そうして、信濃は南朝側の征東将軍の宗良親王の拠点になる。

この時、諏訪家の経済基盤で何が起こったのだろうか。鎌倉幕府が倒れて、室町幕府ができると、鎌倉期に貰っていた諏訪家の特権は危うくなる。諏訪の神領もしかり。さらに、戦乱で明け暮れして荒廃する諏訪神党の各領主も疲弊してくると、諏訪大社の神事どころではなくなる。こうして諏訪大社の神事への奉納は、名目から半減以下になる。支える諏訪神党の領主の家の廃絶も起こってくる。南朝側からの離脱である。まず、これに耐えられずに、反幕府の南朝側から脱落したのが、諏訪下社の大祝金刺家であった。
・・・と、ここまでは、解説書に書かれた通説である。

中世の諏訪・伊那地方の歴史にに詳しい人には冗長な文であることは確かなのでお許し戴きたい。この地方の歴史に詳しくない一般の人には、諏訪家一族の特徴が垣間見えるのではないかと思う。それは、鎌倉幕府の北条得宗家と諏訪家は、親戚同様な関係であったこと、その関係から、室町幕府の当初は、幕府に反目する立場であったこと、北条残党の多い信濃では、諏訪家がその中核であり、幕府側の信濃守護の小笠原家と対立する立場であったこと、宗教を奉じる諏訪家が、寺が武装して僧兵を持つように、神社が武装して神兵を持つに到ったこと、この過程で、諏訪神族が地方部族化して一族の棟梁たらんとする覇権を争い、内部分裂していったこと。同じような戦国大名化の流れで信濃守護の小笠原家も一族の覇権争いが発生し、諏訪家と小笠原家は、双方の対立軸が同盟し、信濃国全体の分裂と対立を生んでいったこと等々が極めて特徴的なことである。

この諏訪家衰退の危機を救ったのが、諏訪家中興の祖と言われる、諏訪円忠であった。またの名は、小坂円忠。この人はかなり優秀であったらしい。幕府と反目する諏訪家の一族でありながら、当時の名僧、夢想国師の勧めで、足利尊氏は、円忠を幕府の役人に任命した。役割は当時頻発する領土問題・境界のトラブルの判官としての任命である。ここで力を発揮した諏訪円忠は、諏訪家のかっての特権を復権する。諏訪家の神領と言われる荘園は、その中心的課題であったと思われるが、それを証する資料は無い。同時期に、他の神社に神領を知行する例を参考にすれば、通常は、幕府は、上社大祝に対して、藤沢荘を神領として下されたのであろう。

円忠の時代より少し下って、藤沢荘の代官の保科家親・貞親の主人は一体誰だったのか。高遠の諏訪継宗が、代官保科家の主人であることは理屈としては無理がある、という結論になる。


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◆ 諏訪家、あるいは諏訪神社の歴史 ・・2
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諏訪家、あるいは諏訪神社の歴史 ・・2
2013-11-04 01:29:22 | 歴史・・2

諏訪家の内訌  "諏訪の乱"

内訌とは・ 一族間の覇権を争う内乱のこと

文明十五年(1483)正月8日、大祝・諏訪継満は、祭事にことよせ、惣領家・政満一家を前宮神殿(ゴウドノ)に招き、酒宴をもって酔いつぶし、夜更けに隠れていた武装の一団を指揮し、嫡子宮若丸も含めて惣領・政満と弟・埴原田小太郎など一族を初め来客一同10余人を皆殺しにした。
・・・それまでも一族間に対立はあったが、ここで本格的な対立・内乱が起こる。時が文明十五年だったことから、後世にこの内乱を、諏訪家の「文明の内訌」と呼ばれるようになる。
この時の対立軸は、まず、大祝・諏訪継満で高遠・諏訪継宗が加担する。一方の惣領家は諏訪政満で、弟埴原田小太郎など一族などであった。
下社の大祝・金刺氏は、当初傍観し、すぐ後に上社大祝・諏訪継満に加担するようになる。

諏訪家の内訌の原因・
一般的には、諏訪大祝・継満が成人を過ぎても大祝の職に留まり、戦国大名化を野望したためとされている。それまでは、大祝は、幼少の時期こそ神が宿るとされて、成人すると俗世に穢されるとされて退位して惣領家に入るか別家を立てるか、だったようだ。この神族や神官に関する部分は、自分の理解を超えるので、なるべく立ち入らない。
もう一つの遠因は、前年文明十四年(1482)に起こった高遠・諏訪継宗と代官・保科貞親の荘園問題での対立と抗争にあると思う。この戦いは、やはり戦国大名を志向する高遠・諏訪継宗が領土拡大を目指して、大祝・継満の荘園に手を出したものと見て良い。そこで、保科貞親は、大祝の代理戦争をしたといのが流れであろうか・・詳細は分かっていない。。しかし、大祝の妻は高遠・諏訪継宗の妹であった事から、やがて和睦した。当初代官・保科貞親と同盟して一緒に戦った藤沢氏千野氏は、突然の保科貞親の和睦、寝返りに梯子を外され、惣領家と府中小笠原家に援軍を頼んだ。この時の惣領家は諏訪政満であり、同族が敵対したことにより、高遠の継宗には余計に政満に怨恨が残った。と、この二つが原因とされている。

文明の内訌の時、保科貞親はどうしたか、が興味深い。当然ながら、主人の大祝・継満の重要な参謀であったことが想像されるが、和睦後は、大祝と高遠・諏訪継宗の同盟のために働いたと思われる。ここで、大祝の居城であった武居城に、保科館の跡地と思われる「保科畠」が現在も残っているが、大祝と荘園代官の保科家が隣接していたと見る方が辻褄が合うが、保科貞親の居住の地が藤沢谷なのか武居城なのか、はたまた、どちらかが出張先の陣屋跡なのか資料がないので定かではない。また、この文明の内訌の時に貞親の嫡子が戦死している。

妻の実家で高遠・諏訪継宗と下社方の加担もあって、惣領家の乗っ取りを企てた。この殺戮集団に殺害された中に政満の親類も多数いたといわれている。神聖な神殿を血で汚し、大祝継満自ら手を下して返り血を浴びる光景を見て、神長官でさえも「まことに大祝とは申し難し」と憤る有様であった。
・・・ここで、大祝側は大きな誤算をする。本来の関係性から、大祝の見方になるべき神官長(守矢家)や神党の多くを敵に回してしまうことになる。

惣領家方の憤怒も極まり直ぐ敵討ちに立ち上がると、郡内武士の勢力の多くと神長官を初め社家方の枢要な人々も同心した。・・前宮と周辺の社寺堂塔が焼かれ、継満は形勢不利をさとり、干沢(樋沢)城に立てこもるが、矢崎・千野・福島・小坂・有賀・神長官たちに攻め立てられ、遂に落城、一族残らず大雪の中、急峻な杖突峠を越えて高遠に逃げた。しかし継満の父、先の大祝・頼満は老齢で病身ため逃げ遅れ、城中で討ち取られた。六十四歳であった。
大祝・諏訪継満にしても完璧な謀略を成し遂げた自信があった。しかし諏訪一族と諏訪神党は、惣領家、大祝家等関係なく、あってはならない事態として猛反発した。

干沢城落城の日は大雪で寒気が厳しかった。特に内陸部の諏訪の寒気は厳しい。大祝・継満は当初から干沢城籠城を想定していない。そのため兵糧の備えもない中、前宮神原に集住する大祝一族と家臣団の住居も、堂塔と共に焼き尽くされている。一族の非戦員の老幼女子も籠城せざるをえず。城内というが砦程度の山中の狭い敷地内であり、居住屋内の設備は堀立小屋程度でたかが知れている。寒気と疲労で、諏訪大祝の兵士と非戦闘員の老幼女子の多くが高遠逃亡の途上で凍死していた。・・・大敗北である。

下社は、文明十五年(1483)正月8日の上社内訌を好機として、一気に諏訪惣領家を略取し、起死回生を謀った。金刺氏は継満と組み、高嶋城(茶臼山城)を陥落させた。その頃の高島城と呼ばれる城は、諏訪市内背後にそびえる茶臼山にあり、手長山の後ろの丘陵で、今は桜ケ丘とよばれている。
上下社領の境は、大和(おわ)の千本木川、諏訪湖、天竜川で、それぞれを湖南山浦地方と湖北と呼ばれた。高嶋城の築城は諏訪惣領家で、下社勢の大和と高木の両城の抑えと、湖北一帯の状況観察が意図されていた。 下社大祝・金刺興春は百騎余りの兵を率い高島城を陥し、更に武津から上桑原一帯に放火し桑原城下の館を占拠した。更に桑原城の攻略に向かうも、惣領家に味方する矢崎肥前守政継を初めとする千野、有賀氏等の軍勢に反撃されて、興春兄弟三騎を初めとする三十二騎と歩卒八十三人が敗死した。

文明の内訌で大祝・継満が、高遠へ追放されると、惣領家支配となり茅野郷に本拠がある千野氏が城主として入城した。 上社惣領家勢は下社に討入り、社殿の悉く焼き払った。守矢神長官は「為何御内證(本心)にて両社成広野」と嘆いている。金刺氏は没落するがまだ余命は保っていた。諏訪惣領家と同盟する府中小笠原長朝も出兵していて、下社領の小野・塩尻郷を領有した。

大祝・継満の再攻
高遠に逃げた継満は、義兄の高遠・諏訪継宗と伊賀良小笠原政貞(政秀のことか)、知久、笠原氏の援軍をえて翌年の文明十六年(1484)5月3日、兵三百余人率い、杖突峠を下り磯並・前山(イソナミ・マエヤマ;茅野市高部)に陣取り、諏訪大社上社の裏山西方の丘陵上にあった片山の古城に拠った。・・・この片山古城は、別名武居城と呼ばれた。ここに大祝の居城・館があり、保科の館跡があったらしい。
・・・さらに、この時の再攻の主役は、高遠・諏訪継宗のようである。
ここは、極めて要害で、西側沢沿いには、水量豊富な権現沢川が流れ地の利もよい。 惣領家方は干沢城に布陣したが、伊那の敵勢には軍勢の来援が続き増加していく。
ところが小笠原長朝が筑摩、安曇両郷の大軍を率いて、片山の古城(武居城)を東側の干沢城と東西に挟み込むように、その西側に向城を築くと形勢は逆転した。その向城こそが、東側の権現沢川左岸の荒城(大熊新城)であった。
伊那勢は両翼を扼され撤退をせざるを得なかった。 継満も自らの残酷な妄動が、結局諏訪惣領家方の結束を強め、下社金刺氏をも無害にし、ここに始めて諏訪湖盆地を領有する一族を誕生させたことを知った。

以後の継満には、諸説があり、信憑性に欠くが、いずれにしても、継満一族は歴史上の本舞台からは消えた。 惣領家方は生き残った政満の次男・頼満に相続させると同時に、大祝に即位させた。5歳であった。

以上を整理してみると、諏訪家の四勢力の内、下社・金刺氏と諏訪上社・大祝家が、この文明の内訌で滅亡し、惣領家が生き残り、新しい大祝を立てて存続し、高遠家は、諏訪の勢力外と言うことで生き残った、と言うことになる。この時に大祝の所有する諏訪神領(荘園)は、どうも高遠家に帰属したと見るのが合理的な見方のように思う。以後、藤沢荘などの言葉が資料に見られなくなる。

文明の内訌の時、大祝・継満と高遠・継宗に援軍した、伊那の軍勢との関係は何であったのだろうか。この部分も興味が深い。

伊那の軍勢、伊那小笠原家
文明十一年(1479)伊那の伊賀良で兵乱が生じる。府中の小笠原長朝が伊賀良の小笠原政貞(政秀)を攻めた。この時小笠原一族の重鎮・坂西光雅は伊賀良の小笠原政貞(政秀)に属していた。坂西光雅は諏訪上社を信仰し、第八代将軍義政の時代の応仁二年(1468)には、頭役をやり遂げている。諏訪方はその関係もあり、小笠原政貞(政秀)の援軍として、その本拠地伊賀良へ、大祝・継満と高遠・継宗が出兵している。
継満の妻は高遠・諏訪継宗の妹で義兄弟になる。この時大祝・継満は二十九歳であった。郡外にでるため一旦大祝を辞し、帰還後復位している。この時期大祝も郡外に出兵できる独自の兵力を養っていた事になる。それが文明の内訌へと繋がる。 文明十二年(1480)8月12日諏訪上社の兵が再度鈴岡の小笠原政貞(政秀)支援のため伊賀良に出兵した。政貞(政秀)の叔父・松尾の小笠原家長が政貞(政秀)を攻撃するため府中の小笠原長朝の援軍を要請したためであった。

*松尾・小笠原家長は、鈴岡・小笠原政秀との戦いで戦死(1480)
*坂西光雅は、坂西家系譜に見つけられないが、この時期の守矢文書に孫六として登場する。孫六は、郊戸荘坂西家の通字で使われている。時代を比定すれば坂西正俊のことか、光雅は通称か。
*鈴岡・政秀は、1481年惣領家・諏訪政満と同盟し、仁科氏などを誘って、府中・小笠原貞朝に攻め込み貞朝を府中から追放している。
・・・この頃の盛衰は激しいので精査を必要とする。



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