宗長親王戦記 8:南北朝抗争の終焉 宗良親王の終末
年表
1356:正平11延文:10月:細川頼之、足利直冬追討に乗り出す。
1357:正平12延文2: 3月20日:島津氏、志布志松尾城を攻める直顕を破り、大隅より追う。
1358:正平13延文3:1月:厚東氏、大内氏に攻められ、豊前へ。
:4月30日:足利尊氏死去。
:・・・背中に出来た癰のため、二条万里小路邸にて死去。享年五十四歳
:・・・異説:尊氏死去:6月7日
:10月:足利義詮、征夷大将軍となる。
1360:正平15:秋:宗良親王、西上するも果たせず。
1368:正平23:3月11日:後村上天皇薨去、長慶天皇即位。
:足利義満3代将軍に
1369:天正24応安2:大河原の地で信濃の宮方勢力再建を図ったと思われるが
:信濃守護を兼ねる関東管領上杉朝房の攻撃を受ける。
1371:建徳2:9月20日:懐良親王九州より和歌を届ける。
1373:文中2応安6:宗良親王は大河原に約三十年間にわたり拠点とし、信濃宮と呼ばれる。
1374:文中3応安7:宗良親王、吉野へ戻る。文中三3年冬 信濃を出て吉野(賀野生)に入る。
1375:天授元:宗良親王六十四歳、「南朝五百番歌合」の判者をつとめる。
1376:天授二:宗良親王六十五歳、「南朝内裏千首歌」に評点を加える。
1377:天授三:春:宗良親王、千首和歌を詠進。
:9月10日:興良親王(護良親王の子)死す。宗良親王、大和長谷寺で再度落飾(仏門)。
1378:天授4:新葉和歌集の選集を終え、信濃・大河原へ戻る
1380:天授6:信濃を出て吉野へ。河内山田に在住。新葉和歌集を編纂。
1381:永徳元弘和元:再び河内から吉野へ、新葉和歌集・完成し長慶天皇へ奏覧。
1385:元中2至徳2:宗良親王没、法名は尊澄。
:死亡場所説諸説あり。現在は長谷説が有力。
:死去説1・大河原説、死亡説2・井伊谷説、死亡説3・長谷説
南北朝の抗争の歴史は、宗良親王が没してから7年後、1392年(元中9年/明徳3年)に終わりを遂げる。・・朝廷が分裂してから、1392年(元中9年/明徳3年)に皇室が合一するまでの時代、1336年から1392年の57年間の長き間、実に多くの出来事があり、実に多くの人達がこの戦いに殉じた。
焉場所については、
1:1550年(天文19年)に作成された京都醍醐寺所蔵の「大草の宮の御哥」と題された古文書の記述から、長らく拠点であった信濃国大河原で薨去したとする説がある
・・・東京大学史料編纂所が醍醐寺文書から抜粋した「三宝院文書」)。
2:一方、「南山巡狩録」や「南朝紹運録」では、1385年(元中2年/至徳2年)に遠江国井伊城で薨去したと記されている。
3:1940年(昭和15年)に長野県常福寺にある宗良親王尊像の胎内から発見された文書から、1385年に大河原から諏訪に向かう途中の峠道で討ち死したとする入野谷長谷説がある。
長谷村では、明治の中頃に十六弁菊花の紋章と宗良親王の法名である尊澄法親王の文字が刻まれた無縫塔が発見されており、胎内文書はかつてこの地にあった天台宗の古刹大徳王寺の住職尊仁が江戸時代に書き残したものされている。
4:浪合説(子の尹良親王終焉の地)、河内山田説、美濃国坂下(中津川市)説、さらには越後や越中で薨去したとの諸説がある。
5:長野県大鹿村大河原釜沢にある宝篋印塔は宗良の墓との伝承、静岡県の井伊谷宮も宗良親王を祀って墳墓が残されている。また美濃国恵那郡高山(中津川市)にも墓がある。
没年時期は1385:(元中2)年8月
・・柳原紀光の「続史愚抄」
・・南朝紹運録
・・入野谷長谷説
没年時期は1389年(元中6年/康応元年)以前
・・花山院長親の「耕雲百首」にある「故信州大王」との記述
宗良親王の墓の発見 ・・・
昭和十五年に、黒河内の溝口(現在・伊那市長谷溝口)より宗良親王に関する遺物と資料が発見されます。これにより、宗良な亡くなった場所がここではないか、と注目され始めます。また、幻の城とされてきた「大徳王寺城」も同時に脚光を浴びてきます。
伊那市教育委員会の資料を以下のそのまま記載します。
「常福寺は永禄二年、来芝充胤大和尚を開山とし、高遠町勝間龍勝寺末寺として曹洞宗になる。以来六人の監寺をおき、明治になってから龍勝寺大願守拙大和尚を勧請開山として今日に至り、正住職五代目となる。
以前のことは詳らかではないが、高遠領内寺院開基帳によれば溝口には松風峰大徳王寺と呑海和尚開創による真言宗常福寺の二ケ寺があったと記されている。現在の常福寺はこの二ケ寺を合祀したものと思われる。大徳王寺とは鎌倉時代末期、新田義貞により鎌倉を追われた執権高時の子時行が籠城し、足利尊氏方と四ヶ月に渡り対峙した「大徳王寺城の戦い」(1,340年)として伝わる難攻不落の寺城と言われている。
興国五年(1344)信濃国伊那郡大河原に入り、約30年間にわたりこの地を拠点とした後醍醐天皇第八皇子・宗良親王が南朝方諏訪氏と連携をとるため、秋葉街道を通い、当城を利用したとされる。明治の中頃、常福寺領「御山」と呼ばれる小山北側から円形の無縫塔(僧侶の墓塔)が見つかり、これには正面に十六弁菊花御紋章(南朝の紋)と宗良親王法名「尊澄法親王」と刻まれていた。その後昭和6年には当寺位牌堂から新田氏一族の位牌が発見された。昭和15年5月12日、常福寺本堂屋根改修中、屋根裏から僧形座像の木像が落下し、胎内から青銅製の千手観音像とともに、宗良親王終焉の様子と、宗良親王の子・尹良親王が当地に御墓を作られ、法像を建立されたこと、親王に随従して山野に戦死した新田一族を弔うことが、大徳王寺住職尊仁によって記された漢文文書が発見された。すなわち「御山」は宗良親王の尊墓であり、この地が宗良親王終焉の地であると考えられている。御尊像はお袈裟から天台宗のものであり、宗良親王は天台宗の座主であったことから、宗良親王像と伝えられる。
大平城が危機に陥っている六月二十四日、時行は信州伊奈谷に旧臣を結集し、大徳王寺城に挙兵した。信濃守護・小笠原貞宗の対応はすばやく、数日にして城を包囲した。苦しい戦いを続ける時行のもとへ、宗良親王が訪れた。援軍を連れて来たわけではない。居城であった大平城が陥落し、保護を求めてきたのである。親王を迎え、城兵の意気は上がった。だが、現実は動かしようもなかった。北朝軍は、大軍をもって城を囲み、隙を見ては攻撃をかけ、時行を確実に追い詰めていったのである。落城が迫っていることを悟った時行は、親王を脱出させた。そして、籠城四ヶ月後の十月二十三日、大徳王寺城は落城した。」
尊澄法「宗良親王」御木像
指定 伊那市文化財(有形文化財)
平成3年9月20日
所在地 伊那市長谷溝口
われを世に 在りやと問わば 信濃なる いなと応えよ峯の松風
「後醍醐天皇の皇子「宗良親王」は齢十余歳で尊澄と名付け天台坐主となるが、南北朝の争いのため還俗して宗良と名を改め、信濃の国を中心に戦いしかも長く住んでいたので信濃宮とも称せられ、父帝より征東将軍に任ぜられていた。しかし「不知其所終」という悲劇の皇子であった。
昭和15年5月12日、当寺本堂の屋根修理中、屋根裏から大音響とともに厚い煤におおわれた僧形坐像の木像が落下してきた。像の背部には彫り込みがあり、その中から青銅製の千手観音と古文書が現れた。
古文書の終わりの方には、元中8年に至り、尹良親王は大徳王寺に来り、父「宗良親王」のお墓を作られ法像を建立された。法華経を写してお墓に納め、また新田氏一族の菩提を弔うため金2枚をお寺に収め、桃井へ帰られたと記してある。
御尊像が天台坐主であることは、お袈裟からも一目瞭然である。」
伊那市教育委員会
御山の遺跡
指定 伊那市文化財(史跡)
昭和49年3月1日
所在地 伊那市長谷溝口
「古来この丘を「みやま」と呼び、明治中頃までは老杉が生い繁っていた。御山に登ると足が腫れるといわれていたので、ここに近づく者はなかったという。 明治の中頃、御山北側の小犬沢で頭の丸い石碑とその近くにあった臼形の台石らしいものとを、沢に近い家の人が発見した。常福寺の住職に相談したところ、円形だから僧侶のものだろうといって寺の墓地に安置した。
昭和6年5月20日、郷土史家「唐沢貞次郎」「長坂熙」の両氏が詳細に調査したところ、墓石正面に十六弁の菊花御紋章があり、その下に「尊澄法親王」その左側側に「元中二乙丑十月一日尹良」と刻んであるのを判読した。尊澄法親王は宗良親王の法名であり、尹良は宗良の王子であることが明らかにされた。
その後区民は宗良親王の遺跡であると信じ、毎年春秋二回ねんごろに法要を営んでいる。
御山の遺跡関連資料は常福寺本堂内に展示されている。」
伊那市教育委員会
この発見された宗良親王に関して、歴史家の市村咸人氏は年代と資料の紙質などで若干の疑問を呈している。が、概ねこの発見で「大徳王寺城」と「宗良親王の終焉地」の長谷溝口説が有力になりつつあることが確認できる。ただ文中に、大徳王寺の戦いの時、宗良親王が大徳王寺に訪れていたことは証明されていない。恐らく無理であろう。
さらに、この溝口周辺が宗良親王の知行地の可能性が出てきている。
以下は推論である。
宗良親王が「知行地」を持っていたとするならば、大変興味深い。今までの謎の多くが解明できるかもしれない。大草城に拠点を持ち、家族や子を持ち、小笠原守護に対峙して宗良の第一の随臣の桃井宗継の桃井城を前衛に、諏訪族の溝口を右翼に、知久家を左翼に、背後を香坂家に配した布陣の城は強靱であり、30年余の長きにわたり武家方(小笠原守護)に耐えたのは頷ける。また、各地に度々の合戦のため出陣するに都合の良い交通の、連絡にも都合の良い地点でもある。宗良の子の尹良親王が、宗良崩御のあと4年後に大徳王寺で法要し桃井に帰った、とあるが、この時桃井城はまだ健在であったのだろう。この後尹良は桃井宗継を伴って各地を転戦する・・浪合記。諏訪家か諏訪一族の誰かが溝口周辺を、知久家が生田を、香坂家が大草を割譲し、大草を中心に「知行地」に類する「疑似知行地」になった可能性は、かなり高い。
宗良親王が「知行地」を持っていた、とする資料は
「正平より元中年間まで黒河内の諸村は宗良親王の御領であった」・・武家沿革図に基づく説であります。この文章は高遠町誌上巻(P351)にあり、偶然見つけました。南朝年号の正平は1346年から1369年までを指し、元中は1384年から1392年までを指します。宗良親王の没年が元中2年(1385)頃と思われます。
「武家沿革図」は、江戸時代作成の地図と言われ、資料価値はB、C級でありますが、江戸時代まで、宗良親王御領地の資料が残っていてそれを基にしたのなら俄然信憑性が出てきます。