私は、2009年から京大の一般教養科目として『国際人のグローバル・リテラシー』という科目を教えている。この授業では、将来の日本人に必要な国際人としてのグローバル視点を持つために世界の各地域の文化の差を議論を通して理解してもらうことを主眼としている。
先ごろ、私のこの授業に関心をもった学生のグループが私の研究室に訪問してきた。彼らは、京大だけでなく京都にある大学生とともに、海外インターンシップを受け入れる活動をしている。その代表が言うには:
『今年度は「真の国際人の育成」ということをテーマに活動し、海外からインターン生を受け入れている。これら海外からの学生を実際に世話しているうちに、世界が国際化していく中で、日本は今後どのような役割を担い、日本人はどういった意識・能力を持てばよいかという点を真剣に考えるようになった。この点について教えて欲しい。』
私は、彼らのこの心意気には感心した。私の授業には数十人の学生が受講しているが、残念ながら必ずしも国際人としてどのように行動すればよいか、について真剣に考えていない学生もいる。しかし、このグループのように実際の活動を通して外国の学生と接しているうちに、観念的にしか捉えていなかった国際人としてのあり方を腰を落として考えるようになるのはいいことだ、と私は評価した。
しかし、彼らが『真の国際人の育成を目指す』という時の国際人という定義にであって、まだまだ観念的だと感じた。かれらの国際人の定義とは:
『外国人が持つ文化・民族から生じる差異を大きな違いとして考えるのでなく、考え方、容姿などと言った個人の違いの要素の一つとして考え、一人の人間として個性を尊重し共生できる人。また同時に、自国や世界の歴史・文化について幅広く教養を持った上でグローバルな出来事に関心をもち、総合的・長期的に思考・判断し、自分の考えを発信・行動できる人。』
私は自らの留学経験や帰国後の外国人との付き合いからこの最初の一文に示されている考えには賛同できない。私の基本的な考えは、『世界各国の文化差は、時として超えがたいものがある、それは無意識のうちに我々の言動を規定している』。我々は主体的に考え、行動している、と思っていても、我々の生まれ育った環境、文化に知らず知らずの内に感化されている。従って、日本以外の人々と付き合う時には、彼らの文化背景を十分理解した上で、その人の人間性を見極めないといけない、と考える。
『世界各地の文化差を知ることが大切だ』と言うと決まって、日本では家に上がる時には玄関で靴を脱ぐということを教えようとしたり、千羽鶴を折ったり、ゆかた着で盆踊りに誘ったりと、表面的な文化交流をすることだと短絡思考する人がいる。私のいう『文化差』というのはもっと思考の根深いところにあるものである。
例えば、最近の福島原発事故の際、自らの生命の危険も顧みず現場で作業した人たちはアメリカのメディアからヒーローと賞賛された。しかし、このように言われた当の現場の日本人達は、そのような英雄扱いするのはやめてくれ、と言ったといわれている。アメリカ人であれば、当人達も誇りに思うし、そのような献身的努力をマスコミが賞賛しないのであれば、逆にマスコミ人としても姿勢が問われる。しかし、日本人にとっては英雄視されることが非常にきづまりに思うのだ。このように無意識の内に自分達の価値観で他の文化圏の人たちの言動を評価してしまうことが必ずしも正しくない。これが『文化差』を意識しないといけない理由である。
【国際人のグローバル視点】
さて、世界各地の文化差を考える時に、次の2つの軸をベースに考えてみると分かり易いであろう。一つの軸は『個人 vs. 団体』。もう一つの軸は『私的 vs. 公的』である。
この図から分かるように、我々が付き合う人というのは、それぞれが担っている役割が異なる。冒頭で述べた学生グループが付き合っている外国人というのは、友達づきあい、つまり右下の象限の『個人・私的』の範疇の人たちである。この範囲の付き合いでは、なるだけ友情を壊すまいと、理解や納得できないことでも、受け入れてしまいがちである。つまり、文化差を感じることがあっても許容の範囲に留まるような行動をとるようになる。上で述べた学生達が感覚的に文化差がない、と感じるのはこのような極限された付き合いしか経験したことがないためである。
ところが、私的でも『団体』になると挙動が異なる。例えば、最近のギリシャの財政危機に対するデモ隊の要求や行動は我々の常識では行き過ぎのように思えるが、彼らにとっては自然な範囲のようだ。
また『公的・団体』や『公的・私人』の事例では、イギリス議会に於いて与党と野党の党首同士が狭いテーブルを挟んで打々発止と熱弁をやりとりする姿は、とても日本の生ぬるい党首討論と比べると、大人と幼稚園児との差を感じる。またそれを熱心にしかも余裕を持って聴いているイギリスの議員達の如才のない姿には議会制民主主義の歴史を体現している風格を感じる。
私はこれからの若者が国際人として行動する為に必要なグローバル視点を得るには、まず世界各国・各地域の文化・歴史を正しく理解することだと考える。そして、我々日本人としての価値判断で全てを判断するのではなく彼ら行動の奥にある文化の影響を理解することで初めて、彼らの言動の真意を評価できるのだ。そのような姿勢を常に持つことで初めて自分なりのグローバルな視点を得ることができると考える。
先ごろ、私のこの授業に関心をもった学生のグループが私の研究室に訪問してきた。彼らは、京大だけでなく京都にある大学生とともに、海外インターンシップを受け入れる活動をしている。その代表が言うには:
『今年度は「真の国際人の育成」ということをテーマに活動し、海外からインターン生を受け入れている。これら海外からの学生を実際に世話しているうちに、世界が国際化していく中で、日本は今後どのような役割を担い、日本人はどういった意識・能力を持てばよいかという点を真剣に考えるようになった。この点について教えて欲しい。』
私は、彼らのこの心意気には感心した。私の授業には数十人の学生が受講しているが、残念ながら必ずしも国際人としてどのように行動すればよいか、について真剣に考えていない学生もいる。しかし、このグループのように実際の活動を通して外国の学生と接しているうちに、観念的にしか捉えていなかった国際人としてのあり方を腰を落として考えるようになるのはいいことだ、と私は評価した。
しかし、彼らが『真の国際人の育成を目指す』という時の国際人という定義にであって、まだまだ観念的だと感じた。かれらの国際人の定義とは:
『外国人が持つ文化・民族から生じる差異を大きな違いとして考えるのでなく、考え方、容姿などと言った個人の違いの要素の一つとして考え、一人の人間として個性を尊重し共生できる人。また同時に、自国や世界の歴史・文化について幅広く教養を持った上でグローバルな出来事に関心をもち、総合的・長期的に思考・判断し、自分の考えを発信・行動できる人。』
私は自らの留学経験や帰国後の外国人との付き合いからこの最初の一文に示されている考えには賛同できない。私の基本的な考えは、『世界各国の文化差は、時として超えがたいものがある、それは無意識のうちに我々の言動を規定している』。我々は主体的に考え、行動している、と思っていても、我々の生まれ育った環境、文化に知らず知らずの内に感化されている。従って、日本以外の人々と付き合う時には、彼らの文化背景を十分理解した上で、その人の人間性を見極めないといけない、と考える。
『世界各地の文化差を知ることが大切だ』と言うと決まって、日本では家に上がる時には玄関で靴を脱ぐということを教えようとしたり、千羽鶴を折ったり、ゆかた着で盆踊りに誘ったりと、表面的な文化交流をすることだと短絡思考する人がいる。私のいう『文化差』というのはもっと思考の根深いところにあるものである。
例えば、最近の福島原発事故の際、自らの生命の危険も顧みず現場で作業した人たちはアメリカのメディアからヒーローと賞賛された。しかし、このように言われた当の現場の日本人達は、そのような英雄扱いするのはやめてくれ、と言ったといわれている。アメリカ人であれば、当人達も誇りに思うし、そのような献身的努力をマスコミが賞賛しないのであれば、逆にマスコミ人としても姿勢が問われる。しかし、日本人にとっては英雄視されることが非常にきづまりに思うのだ。このように無意識の内に自分達の価値観で他の文化圏の人たちの言動を評価してしまうことが必ずしも正しくない。これが『文化差』を意識しないといけない理由である。
【国際人のグローバル視点】
さて、世界各地の文化差を考える時に、次の2つの軸をベースに考えてみると分かり易いであろう。一つの軸は『個人 vs. 団体』。もう一つの軸は『私的 vs. 公的』である。
この図から分かるように、我々が付き合う人というのは、それぞれが担っている役割が異なる。冒頭で述べた学生グループが付き合っている外国人というのは、友達づきあい、つまり右下の象限の『個人・私的』の範疇の人たちである。この範囲の付き合いでは、なるだけ友情を壊すまいと、理解や納得できないことでも、受け入れてしまいがちである。つまり、文化差を感じることがあっても許容の範囲に留まるような行動をとるようになる。上で述べた学生達が感覚的に文化差がない、と感じるのはこのような極限された付き合いしか経験したことがないためである。
ところが、私的でも『団体』になると挙動が異なる。例えば、最近のギリシャの財政危機に対するデモ隊の要求や行動は我々の常識では行き過ぎのように思えるが、彼らにとっては自然な範囲のようだ。
また『公的・団体』や『公的・私人』の事例では、イギリス議会に於いて与党と野党の党首同士が狭いテーブルを挟んで打々発止と熱弁をやりとりする姿は、とても日本の生ぬるい党首討論と比べると、大人と幼稚園児との差を感じる。またそれを熱心にしかも余裕を持って聴いているイギリスの議員達の如才のない姿には議会制民主主義の歴史を体現している風格を感じる。
私はこれからの若者が国際人として行動する為に必要なグローバル視点を得るには、まず世界各国・各地域の文化・歴史を正しく理解することだと考える。そして、我々日本人としての価値判断で全てを判断するのではなく彼ら行動の奥にある文化の影響を理解することで初めて、彼らの言動の真意を評価できるのだ。そのような姿勢を常に持つことで初めて自分なりのグローバルな視点を得ることができると考える。
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