限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

【座右之銘・129】『non possit beatam praestare vitam sapientia』

2021-08-22 19:57:13 | 日記
信じられないかもしれないが、旧約聖書には仏教の経典と見間違うような『伝道の書』と呼ばれる一書がある。(もっとも、『伝道の書』という書名は文語体から1955年の改訳版まで使われていたが、1987年版では『コレヘトの言葉』という書名に変わっている。ここでは、伝統的な『伝道の書』と呼ぶ。)

仏教の経典と見間違う、と言ったのは『伝道の書』の冒頭に
 「空の空、空の空、いっさいは空である。」
と、あたかも選挙運動のように、空(くう)が何度も連呼されるからである。Septuagintaのギリシャ語では次のように書かれている。

【ギリシャ語 + 英語】(赤線の部分が「空の空…」)


【ドイツ語】
Dies sind die Reden des Predigers, des Sohnes Davids, des Konigs zu Jerusalem. Es ist alles ganz eitel, sprach der Prediger,es ist alles ganz eitel..

この文に引き続いて「知恵が多ければ悩みが多く、知識を増す者は憂いを増すからである。」 という文句が見える。つまり、ユダヤ人は知恵・知識が人をほがらかにするのではなく、むしろ憂いを増やすと言っているのだ。

ところが、一般的にユダヤ人は教育熱心な民族として有名である。ユダヤ人には旧約聖書以外にタルムードという膨大な書物があり、様々なテーマについてQ&Aが詳細に書き込まれている(らしい)。私は、残念ながらタルムードの実物をみたことはないが、写真で見る限り、大人でも読むのが大変な書物のようだ。ユダヤ人は子供のころから日曜学校のようなところでこの書物を読みながら、教師や子供同士で議論するとのことだ。つまり、子供のころから貪欲に知恵や知識を求めるユダヤ人でありながら、知恵や知識に対してこのような否定的な意見があるとは驚く。

もっとも、多知多識に警戒せよと説いたのはユダヤ人以外にもいる。仏教でいえば、禅の思想がそうだが、古代のヨーロッパにもこのような考えかたをする人がいた。

それが、ローマの雄弁家のキケロだ。

キケロは雄弁を武器に貴族階級より劣る騎士階級の出身でありながら、国政の第一人者であるコンスール(執政官)にまで昇り詰めた人だ。しかしキケロの後ろ盾となっていたポンペイウスがカエサルに敗れて、カエサルの世になってからは影がうすくなった。それもあってか、政界を引退してから、トゥスクルムにある別荘に引きこもり著述に専念した。短期間に数多くの著作を書き上げたが、一説によるとキケロは奴隷に速記法を学ばせて口述筆記をしていたとも言われる。そのように作られたかどうかは分からないがキケロの哲学的知識を盛り込んだ『善と悪の究極について』(De finibus bonorum et malorum)という本がある。これは『トゥスクルム荘対談集』と並んでテーマの選定といい、当時の哲学潮流を代表する派の選定といい、当時のヘレニズム哲学を知るには非常に好都合な本であると言っていいだろう。



この本の第5章に、アリストテレスの弟子であるテオファラストスが「幸福な人生かどうかは運による所が多い」と述べた文章を引用して、次のような、いわば仏教にもにた諦観を綴っている。
【原文】... non possit beatam praestare vitam sapientia.
【私訳】知恵があるからといって幸福な人生を送れるわけではない。
【英訳】... wisdom alone could not guarantee happiness.
【独訳】... (dann) könnte die Weisheit nicht das Glück des Lebens garantieren.
【仏訳】..., il serait impossible que la sagesse rendît la vie heureuse.
【仏訳2】..., la sagesse ne suffirait pas pour le bonheur.

この文章は、著者のキケロの絶頂と没落と照らし合わせてみると、何やら意味深長なことばに思えてくる。

ところで、ラテン語は、格変化があるおかげで、単語の配置が極めて自由だ。この文でもそれを見ることができる。キケロの原文を仮に単語ベースで英語に置き換えてみると次のような文章になる。
【ラテン語原文】non possit beatam praestare vitam sapientia.
【英語置換】 not possible [the_happy] to_offer [life] the_wisdom

これを見て気づくのは、形容詞(beatam, happy)と名詞(vitam, life)が分離していることだ。日本語はもちろんのこと、近代ヨーロッパ語でも、このような書き方が出来ないが、厳格な格変化を保持しているラテン語(や古典ギリシャ語)ではそれが可能である。その理由は、いくら互いに遠く離れていても、どの形容詞がどの名詞に係るかは明確であるからである。このような言い方に近い言い方を日本語の文法に探すと、副詞の呼応(例:絶対に。。。。しないからね!)に近いと言える。このような単語の自由な配置ができるおかげで、ギリシャ語もラテン語も母音の長短をリズミカルに組み合わせる詩型であるイアンブス(iambus、例:六歩格、五歩格、七歩格)が発達することができたのである。

さて、ユダヤ、ローマの例を述べたので、ついでに中国の例も紹介しておこう。

『孟子』《公孫丑章句上》に斉人の言として
 「智慧ありといえども、勢に乗るにしかず。鎡基(鋤)有りといえども、時を待つにしかず」
 (雖有智慧、不如乗勢。雖有鎡基、不如待時)


という言葉が見える。どうやら、東西の賢人は異口同音に「人の世は知識だけでは渡って行くことはできない」と断言している、ということだ。
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