限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

智嚢聚銘:(第46回目)『中国四千年の策略大全(その 46)』

2023-12-31 09:15:04 | 日記
前回

中国は、1989年6月4日の天安門事件以降、国民の不満をそらすために、江沢民が反日教育を主導した。それ以降、何かにつけ本心からではなく、政策的観点から日本を敵視することで、国内の不満を共産党に有利になるように、上手に操作してきた。こう書くと、あたかも近代の共産党だけが情報操作が巧みであるような印象を与えるだろうが、実はこのような策略は春秋戦国時代からの長き伝統であることは、『春秋左氏伝』《桓公・6年》(BC 705)にも載せられている次の話からもよく分かる。

 ***************************
 馮夢龍『智嚢』【巻23 / 825 / 鬥伯比季梁】(私訳・原文)

楚の武王が随を征服しようと考え、まず使者を派遣して交渉を行わせた。軍隊を国境近くに待機させ無言の圧力をかけた。随は大臣の董成を派遣してきた。楚の鬥伯比がいうには「我が国が漢東の諸国を征服できないのは我々の対外方針が間違っているからだ。我々には、強い軍隊があるぞ、といって武力で諸国を制圧しようとしているので、諸国は我が国の威力を恐れて共同で防衛しようとしている。それで、なかなか勝てないのだ。もし、漢東の諸国の中で随だけが俄然大きくなると、小さな国々は随を恐れて離れていってしまうだろう。これは我が方にとっては思うつぼだ。随の使者は随王の寵愛している者だ、こいつに我々の軍が弱いという所を見せてやれば、きっと帰ってから楚を討つべし、と随王に進言することであろう。」果たして、随の使者は帰ってから随王に楚など簡単に攻め取ることができますと進言したので、随王も楚を攻めようとした。しかし、季梁が「楚はわざと弱兵を見せて、こちらの攻めを誘っています。わなにかかってはなりません!」と強く諌めたので随王は楚を攻撃するのを止めた。

楚武王侵随、使求成焉、而軍瑕以待之。随人使少師董成。鬥伯比曰:「我之不得志於漢東也、我則使然:我張吾三軍、以武臨之、彼則懼而協以謀我、故難図也。漢東之国、随為大、随張、必棄小国、小国離、楚之利也。少師寵、請羸師以張之。」少師帰、請追楚師。季梁諫曰:「楚之羸、其誘我也!」乃止。
 ***************************

この話について、馮夢龍は次のように評している。「当時、季梁がいなかったらな、危うく楚の計略にひっかかるところであった。楚子反の言葉に「敵の城を攻略しようとする者は、馬に柑をはませ、餌を与え、恰幅の良い人間に接客させる。これら全て敵を威圧するためである。よって、わざと弱いところを見せるのは計略にはめようと誘っているのだ。」(当時微季梁、幾堕楚計。楚子反有言:「囲者、柑馬而秣之、使肥者応客。」故凡示弱者皆誘也。)

結局、季梁が随主を諫めたので、楚の計略にひっかからずに済んだという。当時も、そして現在も、中国の計略は一筋縄ではいかない。。



馮夢龍はこの評に続けて、次のような類似の話を紹介している。時は、7世紀末の武則天(日本では則天武后という)の時代。

 ***************************
 馮夢龍『智嚢』【巻23 / 825 / 鬥伯比季梁】(私訳・原文)

武則天の時、契丹の李尽忠と孫万栄が反乱を起こして、営州の営府を占領した。地下牢に捕虜数百人を閉じ込めた。麻仁節たちの官軍が進撃してくると聞くや、賊兵たちは牢の門番にわざと「われらは寒さと飢えで死にそうだ。唐の軍が来たら、即刻、投降しようと思っている」と嘆いてみせた。数日して囚人たちを牢から引き出して粥を与えていうには「食糧不足でお前たちに配給できる食べ物がない。お前たちを殺すのも気の毒なので、釈放してやるが、どうする?」と聞くと、囚人たちは伏し拝んで命乞いしたので、釈放した。囚人たちは幽州に辿りつくや、賊兵から釈放された理由をしゃべりまくったので、唐の兵士たちは、賊兵など恐るるに足らずと、先を競って進軍して黄鑾峪(黄麞谷ともいう)に到着した。賊兵は、老人たちに官軍が来たら投降せよと命じて、やせて年老いた牛馬を与えておいた。官軍の麻仁節たちは、賊兵をあなどって、進軍速度の遅い歩兵隊は置き去りにして騎兵の武将たちだけで進んで行ったところ、賊の待ち伏せに遭って武将たちは軒並み斬り殺され、大将の麻仁節は捕虜となり、全滅した。

天后中、契丹李尽忠、孫万栄之破営府也、以地牢囚漢俘数百人、聞麻仁節等諸軍将至、乃令守者紿之曰:「家口飢寒、不能存活、待国家兵到即降耳。」一日引出諸囚、与之粥、慰曰:「吾等乏食養汝、又不忍殺汝、縦放帰、若何?」衆皆拝伏乞命、乃縦去。至幽州、具言其故。兵士聞之、争欲先入、至黄鑾峪、賊又令老者投官軍、送遺老牛痩馬於道側。仁節等棄歩卒、将馬先入。賊設伏、橫截将軍、生擒仁節等。全軍皆沒。
 ***************************

契丹の軍隊は食糧難の上、戦闘意欲もないとの話を信じ込んだために、麻仁節に率られた唐の軍隊は全滅した。自分たちは弱いと見せかかて、敵を油断させておいて一挙に敵を全滅に追い込む、契丹の作戦勝だ。中国と交渉する政治家や、中国人相手にビジネスをする日本人は注意の上にも何倍も注意をするにこしたことはないということだ。

続く。。。
コメント    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 沂風詠録:(第358回目)『立... | トップ | 沂風詠録:(第359回目)『立... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

日記」カテゴリの最新記事