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想溢筆翔:(第52回目)『鳥獣から嘲られる人間の振る舞い』
で、賀茂真淵が『国意考』で人間の方が畜生や鳥獣よりたちが悪いという感想を述べていたと述べた。真淵はそれだけに止まらず仏陀が説いた生命の尊さと同じ意図のことを次のような言葉で表現している。(出典は、『国意考』改造社、1944年)
『世の中の生けるものを人のみ貴しと思ふはおろかなる事也。天地の父母の目よりは人も獣も虫も同じ事なるべし。』(P.57)
『人を殺すも虫を殺すも同じ事なるを知るべし。』(P.61)
真淵は自分は人間ではなく、神の立場で全ての生き物を差別なく見て、ものを言っている。
ところでユダヤ教やイスラム教などの一部の宗教を除き、大抵の宗教は神の像を祭っているが、その姿は人間の形を取っている。(本当は、人間が髪の似姿であるとキリスト教は説く。)しかし、真淵同様、神の立場からみたらこの現象は滑稽だと的確に指摘した賢人が古代のギリシャにいた。その名をクセノファネス(クセノパネス、Xenophanes)という。 ディオゲネス・ラエルティオスの『ギリシア哲学者列伝』(巻9)にはその性格について
つまり、「至って謙虚だ」と誉めている。
謙虚であると言っても、世の中の迷い事に対するその批判的舌鋒は鋭い。神の姿について人々が勝手に決めているのはばかばかしいとして、次のように述べる。
【私訳】エチオピア人は神々の鼻はぺちゃんこで肌は黒いと言う。一方、北方のサラキア人(ブルガリア人)は神々は青い眼で金髪だと言う。
【英訳】The Ethiopians make their gods black and snub-nosed; the Thracians say theirs have blue eyes and red hair.
【独訳】Die Äthiopier behaupten, ihre Götter seien stumpfnasig und schwarz, die Thraker, blauäugig und blond.
つまり、神はそれぞれの部族と同じ姿形をしているということだ。これは妄想以外の何ものでもないと、笑い飛ばせるが、クセノファネスは問題の核心を次のように指摘する。
【私訳】もし牛や馬、ライオンに手があって人間と同じように絵を書いたり彫刻をしたりすることができるなら、馬が描く神々は馬の恰好をしているだろう。。。
【英訳】If oxen and horses or lions had hands, and could paint with their hands, and produce works of art as men do, horses would paint the forms of the gods like horses ...
【独訳】Wenn aber die Rinder und Pferde und Löwen Haende hätten und mit diesen Händen malen könnten und Bildwerke schaffen wie Menschen, so würden die Pferde die Götter Abbilden und malen in der Gestalt von Pferden, ...
つまり各部族が神々を自分達と同じ姿であると考えるのと同じように動物たちも神々が自分達と同じ姿形をしていると考えるだろう。批判的精神旺盛の古代ギリシャ人であるクセノファネスは人間が勝手に神という、ありもしない幻像をでっち上げ、その性格や姿形についてやかましく議論しているが、全くばかばかしいことだと皮肉っているのだ。
現代のギリシャはいざ知らず、古代ギリシャに対して、私が愛着とあこがれを感ずるのは、まさしくクセノファネスのような自由精神溢れた人が寸言で我々の迷妄を醒ましてくれるからである。
【参照ブログ】
沂風詠録:(第185回目)『辛辣な毒舌家・ディオゲネスを許容したギリシャの自由』
想溢筆翔:(第52回目)『鳥獣から嘲られる人間の振る舞い』
で、賀茂真淵が『国意考』で人間の方が畜生や鳥獣よりたちが悪いという感想を述べていたと述べた。真淵はそれだけに止まらず仏陀が説いた生命の尊さと同じ意図のことを次のような言葉で表現している。(出典は、『国意考』改造社、1944年)
『世の中の生けるものを人のみ貴しと思ふはおろかなる事也。天地の父母の目よりは人も獣も虫も同じ事なるべし。』(P.57)
『人を殺すも虫を殺すも同じ事なるを知るべし。』(P.61)
真淵は自分は人間ではなく、神の立場で全ての生き物を差別なく見て、ものを言っている。
ところでユダヤ教やイスラム教などの一部の宗教を除き、大抵の宗教は神の像を祭っているが、その姿は人間の形を取っている。(本当は、人間が髪の似姿であるとキリスト教は説く。)しかし、真淵同様、神の立場からみたらこの現象は滑稽だと的確に指摘した賢人が古代のギリシャにいた。その名をクセノファネス(クセノパネス、Xenophanes)という。 ディオゲネス・ラエルティオスの『ギリシア哲学者列伝』(巻9)にはその性格について
つまり、「至って謙虚だ」と誉めている。
謙虚であると言っても、世の中の迷い事に対するその批判的舌鋒は鋭い。神の姿について人々が勝手に決めているのはばかばかしいとして、次のように述べる。
【私訳】エチオピア人は神々の鼻はぺちゃんこで肌は黒いと言う。一方、北方のサラキア人(ブルガリア人)は神々は青い眼で金髪だと言う。
【英訳】The Ethiopians make their gods black and snub-nosed; the Thracians say theirs have blue eyes and red hair.
【独訳】Die Äthiopier behaupten, ihre Götter seien stumpfnasig und schwarz, die Thraker, blauäugig und blond.
つまり、神はそれぞれの部族と同じ姿形をしているということだ。これは妄想以外の何ものでもないと、笑い飛ばせるが、クセノファネスは問題の核心を次のように指摘する。
【私訳】もし牛や馬、ライオンに手があって人間と同じように絵を書いたり彫刻をしたりすることができるなら、馬が描く神々は馬の恰好をしているだろう。。。
【英訳】If oxen and horses or lions had hands, and could paint with their hands, and produce works of art as men do, horses would paint the forms of the gods like horses ...
【独訳】Wenn aber die Rinder und Pferde und Löwen Haende hätten und mit diesen Händen malen könnten und Bildwerke schaffen wie Menschen, so würden die Pferde die Götter Abbilden und malen in der Gestalt von Pferden, ...
つまり各部族が神々を自分達と同じ姿であると考えるのと同じように動物たちも神々が自分達と同じ姿形をしていると考えるだろう。批判的精神旺盛の古代ギリシャ人であるクセノファネスは人間が勝手に神という、ありもしない幻像をでっち上げ、その性格や姿形についてやかましく議論しているが、全くばかばかしいことだと皮肉っているのだ。
現代のギリシャはいざ知らず、古代ギリシャに対して、私が愛着とあこがれを感ずるのは、まさしくクセノファネスのような自由精神溢れた人が寸言で我々の迷妄を醒ましてくれるからである。
【参照ブログ】
沂風詠録:(第185回目)『辛辣な毒舌家・ディオゲネスを許容したギリシャの自由』