限りなき知の探訪

45年間、『知の探訪』を続けてきた。いま座っている『人類四千年の特等席』からの見晴らしをつづる。

想溢筆翔:(第223回目)『資治通鑑に見られる現代用語(その66)』

2015-09-24 23:36:33 | 日記
前回

【165.死且不朽 】P.3535、AD402年

江戸時代、佐藤一斎という大儒がいた。幕府の学問所で儒学の本山である昌平黌のトップ、つまり総長、まで上り詰めた。人間的には癖の強かった人ようで、よくない話もいくつか伝わっているようだ。しかし、我々現代人にとっては、そのような過去の私事はもはやどうでもいいことだ。それより、ところどころに含蓄深い言葉を載せる、『言志四録』という語録を遺してくれたことに感謝したい。

とりわけ有名なのが、次の句であろう。
 少而学、則壮而有為。(少にして学べば、則ち壮にして為すあり)
 壮而学、則老而不衰。(壮にして学べば、則ち老にして衰えず)
 老而学、則死而不朽。(老にして学べば、則ち死して朽ちず)


一言で言えば、若い時から死ぬまで勉強を怠るな、という励ましの言葉だ。



さて、この『死而不朽』(死して朽ちず)という語だが、すでに『春秋左氏伝』(襄公・24年)に見える。そこでは、含蓄深い立派な言葉を後世に遺すのは、政治や戦争より立派な功績だという。(大上有立徳、其次有立功、其次有立言。雖久不廃、此之謂不朽)

『死而不朽』と類似の言葉、『死且不朽』が資治通鑑に見える。その場面を紹介しよう。

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禿髪傉檀が顕美の戦闘に勝って、孟禕を捕えた。そして、どうして早く降伏しなかったのかと責めた。孟禕が答えていうには「私は呂氏(後涼)から領土も与えられるなど、厚い恩義を蒙っています。もし将軍の大軍が、始めに来ていれば当然軍門に下っていたはずですが、将軍の家来の軍隊でしたから降参すればどのような目に遭うか分りませんでした。」禿髪傉檀は孟禕を赦し、客分として厚く遇した。食邑、2000戸を与え、左司馬の職を授けようと言ったが、孟禕はその申し出を辞退してこういった。「呂氏(後涼)がまさに滅びようとしていますが、そうなれば将軍は当然、黄河の右側の領土を手にいれることは世間の誰もが知っています。私は領土を守りきることができなかったにも拘らず、このような顕職についたなら、他人はどうあれ、自分自身恥ずかしく思います。できるなら、将軍の仁恵を天下に明らかにし、姑臧を打ち破ることができたなら、死且不朽(死んでも私の名前は残るでしょう)。」 禿髪傉檀は孟禕はあっぱれなヤツと感心して返した。

禿髪傉檀克顕美,執孟禕而責之以其不早降。 禕曰:「 禕受呂氏厚恩,分符守土;若明公大軍甫至,望旗帰附,恐獲罪於執事矣。」傉檀釈而礼之,徙二千余戸而帰,以禕為左司馬。禕辞曰:「呂氏将亡,聖朝必取河右,人無愚智皆知之。但禕為人守城不能全,復忝顕任,於心窃所未安。若蒙明公之恵,使得就戮姑臧,死且不朽。」 傉檀義而帰之。
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禿髪傉檀は敵将の孟禕を捕えたが、彼のすがすがしい男気に感心して、自分の部下に取り立ててやろうと言った。しかもかなりランクの高い職に付けようと言った。しかし、孟禕はそれでは、今まで仕えていた主君の呂氏(後涼)に忍びないと断った。ただ、自分のこれからの任務は、禿髪傉檀の立派さを称え、共通の敵である姑臧を打ち破ることだ、と宣言した。それが果たせれば本望で、自分の名前は永遠に人々の記憶に残るだろうといった。

『死而不朽』と『死且不朽』は日本語では『死して朽ちず』と同じ読みで、意味もほぼ等しい。ただ、後者は『死んだとしても、それでもやはり』とかなり強調しているニュアンスを感じる。

続く。。。
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