(前回)
【163.闘志 】P.3524、AD401年
『闘志』の初出は春秋左氏伝(桓公・11年)。時は、BC701年、鄖が小国の四ヶ国を従えて、大国の楚を討とうとした。鄖は味方の軍勢が多いのを見て、この戦は勝ったも同然と安心していた。それを見抜いたのは楚の将軍・闘廉であった。上司の莫敖に次のように言って安心させた。「ご安心なさい、鄖は計画が万全の上、城の守りが固いと思っているので、必ずや闘志がないでしょう。」(鄖有虞心而恃其城.莫有闘志)。戦闘が始まると、果たして闘廉の予言通りの結末となった。
さて、東晋の末に『孫恩の乱』が起こる。孫恩の軍は一時は大勢力となったが、何しろ元がいかがわしい占い術師であるため、まともな軍事戦略がなく、ところかまわず都市を攻略しては、転戦するというありさまであった。朝廷側の劉裕がわずかの手勢で丹徒にある孫恩の砦を襲撃したが、孫恩の守備軍はあっけなく壊滅してしまった。
+++++++++++++++++++++++++++
劉裕の軍勢は千人にも足りない少人数だった。敵の軍勢より先に丹徒に到着しようと急いだので、敵の孫恩の軍とほぼ同時に丹徒に到着した。劉裕は兵隊が少ない上に、急いで来たので疲労していた。しかし、丹徒の守備兵には闘志が全く見られなかった。孫恩は兵隊と共に住民も引き連れて近くの蒜山に登った。住民は一人残らず、にわか仕立てに武器を持たされて、防衛に狩り出された。劉裕は手勢を率いて突撃して、敵を大破した。敵の兵士や住民は崖から川に身を投げたので、多数が溺死した。孫恩は混乱の中、ようやくのことで自分の船に戻ることができた。
劉裕兵不満千人,倍道兼行,与恩倶至丹徒。裕衆既少,加以渉遠疲労,而丹徒守軍莫有鬬志。恩帥衆鼓譟,登蒜山,居民皆荷担而立。裕帥所領奔撃,大破之,投崖赴水者甚衆,恩狼狽僅得還船。
+++++++++++++++++++++++++++
さて、資治通鑑に『闘志』が見える個所は合計で25ヶ所あるが全てのケースが否定辞を伴っている。例えば、次のような用例だ:
無闘志 (闘志なし)
莫有闘志(闘志あるなし)
無復闘志(また、闘志なし)
『闘志』と聞くと、私にはアントニオ猪木のニックネーム、『燃える闘魂』が頭に浮かぶが、中国ではどうやら状況が逆で、『燃えない闘志』という使い方しかなさそうだ。
ところで、この『闘』は新漢字で、旧漢字では次のように書くが読みはおなじく『トウ』である。
この字をよ~く見ると、門(もん)構えではなく、鬥(たたかい)構えである。『鬥』の字、それ自体がすでに『戦う・争う』の意味を持つ。『鬬』はこの『鬥』の中に『斲』が入っている。
この『斲』という字は『切る・cut to pieces, hack, chop』の意味で、読みは『タク』である。
白川静氏の『字統』を見ると、次のような解説がある。『斲』は『斤(おの)で盾に彫刻を加える』の意、『鬥』は『二人が髪を振り乱し手でつかみ合う形』の意。『鬬』はこの両者を合わせて『戦闘』の意、と説く。
白川静氏は日本では、漢字の神様のように尊敬されているので、私のような素人がいちゃもんを付けるのは気が狂っていると思われるかもしれないが、それを承知で言うと、私は『鬬』の字の解釈はどうも納得がいかない。白川氏は、漢字というのは論理的思考に基づいて組み立てられているという前提に立って、出来る限り合理的解釈を施そうとしているが、私にはどうもその前提自体が間違っているように思われる。『鬬』という字はすでに『鬥』で全ての意味を表わし『斲』は付けたしに過ぎないように思われる。そうであるから、『闘』(本当は門構えではなく、鬥構え)も『鬬』と全く同じ意味を表わすことができるのだ。
【参照サイト】
獸:『原原本本説漢字』と『字統』
(続く。。。)
【163.闘志 】P.3524、AD401年
『闘志』の初出は春秋左氏伝(桓公・11年)。時は、BC701年、鄖が小国の四ヶ国を従えて、大国の楚を討とうとした。鄖は味方の軍勢が多いのを見て、この戦は勝ったも同然と安心していた。それを見抜いたのは楚の将軍・闘廉であった。上司の莫敖に次のように言って安心させた。「ご安心なさい、鄖は計画が万全の上、城の守りが固いと思っているので、必ずや闘志がないでしょう。」(鄖有虞心而恃其城.莫有闘志)。戦闘が始まると、果たして闘廉の予言通りの結末となった。
さて、東晋の末に『孫恩の乱』が起こる。孫恩の軍は一時は大勢力となったが、何しろ元がいかがわしい占い術師であるため、まともな軍事戦略がなく、ところかまわず都市を攻略しては、転戦するというありさまであった。朝廷側の劉裕がわずかの手勢で丹徒にある孫恩の砦を襲撃したが、孫恩の守備軍はあっけなく壊滅してしまった。
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劉裕の軍勢は千人にも足りない少人数だった。敵の軍勢より先に丹徒に到着しようと急いだので、敵の孫恩の軍とほぼ同時に丹徒に到着した。劉裕は兵隊が少ない上に、急いで来たので疲労していた。しかし、丹徒の守備兵には闘志が全く見られなかった。孫恩は兵隊と共に住民も引き連れて近くの蒜山に登った。住民は一人残らず、にわか仕立てに武器を持たされて、防衛に狩り出された。劉裕は手勢を率いて突撃して、敵を大破した。敵の兵士や住民は崖から川に身を投げたので、多数が溺死した。孫恩は混乱の中、ようやくのことで自分の船に戻ることができた。
劉裕兵不満千人,倍道兼行,与恩倶至丹徒。裕衆既少,加以渉遠疲労,而丹徒守軍莫有鬬志。恩帥衆鼓譟,登蒜山,居民皆荷担而立。裕帥所領奔撃,大破之,投崖赴水者甚衆,恩狼狽僅得還船。
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さて、資治通鑑に『闘志』が見える個所は合計で25ヶ所あるが全てのケースが否定辞を伴っている。例えば、次のような用例だ:
無闘志 (闘志なし)
莫有闘志(闘志あるなし)
無復闘志(また、闘志なし)
『闘志』と聞くと、私にはアントニオ猪木のニックネーム、『燃える闘魂』が頭に浮かぶが、中国ではどうやら状況が逆で、『燃えない闘志』という使い方しかなさそうだ。
ところで、この『闘』は新漢字で、旧漢字では次のように書くが読みはおなじく『トウ』である。
この字をよ~く見ると、門(もん)構えではなく、鬥(たたかい)構えである。『鬥』の字、それ自体がすでに『戦う・争う』の意味を持つ。『鬬』はこの『鬥』の中に『斲』が入っている。
この『斲』という字は『切る・cut to pieces, hack, chop』の意味で、読みは『タク』である。
白川静氏の『字統』を見ると、次のような解説がある。『斲』は『斤(おの)で盾に彫刻を加える』の意、『鬥』は『二人が髪を振り乱し手でつかみ合う形』の意。『鬬』はこの両者を合わせて『戦闘』の意、と説く。
白川静氏は日本では、漢字の神様のように尊敬されているので、私のような素人がいちゃもんを付けるのは気が狂っていると思われるかもしれないが、それを承知で言うと、私は『鬬』の字の解釈はどうも納得がいかない。白川氏は、漢字というのは論理的思考に基づいて組み立てられているという前提に立って、出来る限り合理的解釈を施そうとしているが、私にはどうもその前提自体が間違っているように思われる。『鬬』という字はすでに『鬥』で全ての意味を表わし『斲』は付けたしに過ぎないように思われる。そうであるから、『闘』(本当は門構えではなく、鬥構え)も『鬬』と全く同じ意味を表わすことができるのだ。
【参照サイト】
獸:『原原本本説漢字』と『字統』
(続く。。。)