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獅子風蓮のつぶやきブログ

日記風に、日々感じたこと、思ったことを不定期につぶやいていきます。

石橋湛山の生涯(その13)

2024-06-14 01:27:48 | 石橋湛山

石橋湛山の政治思想に、私は賛同します。
湛山は日蓮宗の僧籍を持っていましたが、同じ日蓮仏法の信奉者として、そのリベラルな平和主義の背景に日蓮の教えが通底していたと思うと嬉しく思います。
公明党の議員も、おそらく政治思想的には共通点が多いと思うので、いっそのこと湛山議連に合流し、あらたな政治グループを作ったらいいのにと思ったりします。

湛山の人物に迫ってみたいと思います。

そこで、湛山の心の内面にまでつっこんだと思われるこの本を。

江宮隆之『政治的良心に従います__石橋湛山の生涯』(河出書房新社、1999.07)

□序 章
□第1章 オションボリ
□第2章 「ビー・ジェントルマン」
■第3章 プラグマティズム
□第4章 東洋経済新報
□第5章 小日本主義
□第6章 父と子
□第7章 政界
□第8章 悲劇の宰相
□終 章
□あとがき

 


第3章 プラグマティズム

(つづきです)

8月の終わりになって、湛山は結果を報告のために山梨に戻った。すると日謙は、
「受験失敗は残念だったが、それも人の運というもの。来年もう一度、受験するんだろう? 実は山梨普通学校で教師が不足している。もしよかったら、手伝ってくれないだろうか。こちらでも受験勉強は出来ると思うが」
そんなことを切り出した。
湛山は、壺の底のような甲府盆地が好きだった。底から眺める四方の山々の景色も気に入っていた。
すでに述べたように、山梨普通学校は湛山の父親・湛誓や日謙などが明治22年に甲府に設立した中学と同程度の私立学校であった。日蓮宗の寺院の子弟の教育を目的にしていたが、僧侶のタマゴだけでなく一般からの志望があれば受け入れていた。
ここで湛山は1、2年生の英語と博物を教えることになった。教壇に立ってからは、一時は3、4年生の日本歴史も教えることもあった。教える前に気がついたことがあった。
それは文部省で発行している教師用の参考書であった。
「なあんだ、甲府中学校の先生たちもこれを見て教えてくれたのか」
中学時代に教わったことが、すべて詳しく参考書には載っていたのだ。湛山は、おかしくて一人でくすくす笑ってしまった。
「これなら僕にも簡単だ」
だから湛山の教師ぶりは決して不自然ではなかった。ところが生徒のなかには新米の教師と思って質問攻めにする者が必ずいる。しかも湛山は美少年である。からかってみたくなる要素を持っていた。
「いいかい、同じ時計でも用途や形状によって英語も呼び方は違う。懐中時計はウオッチ。置時計はクロック。分かるね」
「先生、では、目覚まし時計は何と言うのですか?」
「……それは、だな。クロックに決まっているだろ」
湛山は、へどもどしたら教師は落第、と教えられていたから、本当のことは分からなくても知ったかぶって平然と答えた。
博物学の授業中であった。「つくし」について語っていると、
「先生。じゃあ、すぎな、というのは?」
と、とんでもない質問がきた。生徒のほうは、毎日道端や野原で、つくしの元になる「すぎな」の実物をいじって遊んでいるのである。湛山には分からない。そんな時には、
「はっきり言って、先生には分からない」
きっぱり答えると、生徒はそれで質問を引っ込めた。
湛山は、ほぼ同じくらいの年齢の生徒たちから「先生」と呼ばれるのに、照れ臭さと面映ゆさを感じたが、反面で「先生」と呼ばれることの喜びも覚えた。
甲府中学に通い始めた頃は日蓮宗の影響もあって、漠然と「宗教か教育関係の仕事が出来たら」
と考えていた。それが、大島正健と出会ってからは「大学で医学を学び、出来れば医師と宗教家を兼ねた仕事をしたい」ともっと具体的な仕事を思うようになっていた。
大島に触発されたためだが、それは「社会に役立つ仕事」であった。
東京で医学を学ぶためには、第一高等学校に入学しなければならない。だからこそ来年の入試を目指し、浪人生活を送っているのであった。
湛山の「先生」時代は、約10ヶ月で終わった。

(つづく)


解説
甲府中学に通い始めた頃は日蓮宗の影響もあって、漠然と「宗教か教育関係の仕事が出来たら」
と考えていた。それが、大島正健と出会ってからは「大学で医学を学び、出来れば医師と宗教家を兼ねた仕事をしたい」ともっと具体的な仕事を思うようになっていた。
大島に触発されたためだが、それは「社会に役立つ仕事」であった。

湛山が医師を志していたことを知り、なんだかうれしく感じました。
しかも「医師と宗教家を兼ねた仕事をしたい」とも考えていたと。
私も大学生になった最初のころは「妙法の医師」を目指すなんて、気恥ずかしいことを考えていたものです。

 

獅子風蓮


石橋湛山の生涯(その12)

2024-06-13 01:15:40 | 石橋湛山

石橋湛山の政治思想に、私は賛同します。
湛山は日蓮宗の僧籍を持っていましたが、同じ日蓮仏法の信奉者として、そのリベラルな平和主義の背景に日蓮の教えが通底していたと思うと嬉しく思います。
公明党の議員も、おそらく政治思想的には共通点が多いと思うので、いっそのこと湛山議連に合流し、あらたな政治グループを作ったらいいのにと思ったりします。

湛山の人物に迫ってみたいと思います。

そこで、湛山の心の内面にまでつっこんだと思われるこの本を。

江宮隆之『政治的良心に従います__石橋湛山の生涯』(河出書房新社、1999.07)

□序 章
□第1章 オションボリ
□第2章 「ビー・ジェントルマン」
■第3章 プラグマティズム
□第4章 東洋経済新報
□第5章 小日本主義
□第6章 父と子
□第7章 政界
□第8章 悲劇の宰相
□終 章
□あとがき

 


第3章 プラグマティズム

山梨県立甲府中学校を53人中、17番目という普通の成績で卒業した湛山は、日謙夫妻や長遠寺の兄弟弟子に祝福されて東京に出た。湛山は、第一高等学校(旧制。現在の東京大学教養学部)に入学するつもりでいた。
当時は中学を卒業すると、高校の入学試験は7月、新学期は9月であった。だから4月から7月の試験までが、直前の受験期間になる。
湛山は学力には自信があった。中学を2回も落第したが、それでも「やれば出来るし、その自信もある」と思っていた。学力が追いつかないで落第したわけではなかったからである。
上京すると転がり込んだのは、芝区魚籃坂にある母の家であった。父親の湛誓は静岡の本覚寺にいたが、母親のきんと弟、妹たちは東京に戻っていた。湛山は、束の間の母や弟、妹たちとの普通の生活を楽しんだ。だが、精神の安らぎは、本当に束の間で、後は脇目も振らず一高受験に邁進した。久しぶりの母親の優しさに浸る間もなかった。
受験勉強の3ヶ月は、瞬く間に過ぎた。
自信を持って臨んだ一高受験だったが、結果は散々であった。湛山は、自分が自信満々だったことが、やはり「井のなかの蛙」であったのだと得心した。
「田舎の秀才、ってことかな」
「全国から秀才が集まるんだから、おまえが格別駄目だったというわけではないさ。そんな言い方をしないで、若いんだから、もう一度来年に賭けてみたら?」
きんは、慰めるのでなく言った。過ぎ去ったことでくよくよしても始まらない。それよりも次への準備を怠るな、と言うのである。

(つづく)


解説

湛山は、第一高等学校をまさかの不合格となります。

でも、来年にかけるのでした。

 

獅子風蓮


友岡雅弥さんの「地の塩」その23)農村・漁村の多様性を保つということ

2024-06-12 01:05:04 | 友岡雅弥

友岡雅弥さんは、執筆者プロフィールにも書いてあるように、音楽は、ロック、hip-hop、民族音楽など、J-Pop以外は何でも聴かれるとのこと。
上方落語や沖縄民謡にも詳しいようです。
SALT OF THE EARTH というカテゴリーでは、それらの興味深い蘊蓄が語られています。
いくつかかいつまんで、紹介させていただきます。


カテゴリー: SALT OF THE EARTH

「地の塩」という意味で、マタイによる福音書の第5章13節にでてきます。
(中略)
このタイトルのもとに書くエセーは、歴史のなかで、また社会のなかで、多くの人々の記憶に刻まれずにいる、「片隅」の出来事、エピソー ド、人物を紹介しようという、小さな試みです。

 


Salt42 - 農村・漁村の多様性

2018年10月29日 投稿
友岡雅弥

三瓶明雄さんを覚えていらっしゃいますか?テレビ番組『ザ!鉄腕!DASH!!』で、福島県浪江町に作られた「福島DASH!!村」の農業指導をされていたかたです。

浪江町は、原発建設を拒否した町です。農業や漁業、そして「大堀相馬焼」という有名な焼き物などで、国からの原発補助金を受けとらずに、町の行政を維持してきました。

しかし、原発事故のとき、折りから吹いていた、南東の強風にのって、高線量の放射性物質は、原発の北西にあった、浪江町(の山間部)を襲ったのです。

「福島DASH!!村」は、まさに、そこにありました。6月に近づけるぎりぎりのところまでいってきました。今は、立ち入れない「帰還困難区域」となっています。

三瓶明雄さんは、白血病で帰らぬ人となりました。

あの番組を見た人は、驚いたと思います。
明雄さんは、米も作る、果物も作る、野菜も作る、ヤギも飼う、そのうえ、炭も焼く。炭焼き窯も作る。井戸を掘る、ちょっとした建物は自分で建てる。稲藁で、生活用具を作る。味噌も作る。

同じ番組で、「DASH!!島」という、無人島を開拓する企画があるのですが、ごらんになったかたはお分かりのように、TOKIOのメンバーが開拓する、そのほとんどの知識(食べていい植物や果実やキノコ。その調理法、病害虫から作物を守るための「自然農薬」の作り方、地下に水があるかを調べる方法、などなど)は、「福島DASH!!村」で、明雄さんから教わったものです。

番組で「スーパー農家さん」として紹介される三瓶さんは、どうして「スーパー」なのでしょう。
それには理由があります。

明雄さんは、開拓農家さんなのです。
開拓農家というのは、戦前・戦中、貧しい農家の次男さん、三男さんが、満州など外地開拓のために移住し、そして、敗戦とともに、命がけで帰国。でも、日本にはもう耕す場所はない。それで、国内の未耕作地に送られたのです。

自分たちで掘っ立て小屋を建てて、山林を耕し、農地にするのです。医者もいません。役場もありません。なんと、開拓農家さんたちは、営林署の所轄なのです。

後に、病死する人がおおかったので、医師ではなく、保健婦(当時の言葉)さんがその任に当たることになったのですが、その保健婦さんたちも、厚生省(当時、現・厚労省)や自治体の管轄ではなく、営林署の管轄だったんです。

何年も何年も木を切り倒し、切り株をぬき、畑地や田にするために土地を耕す。
その間の現金収入は、炭焼きや藁や木で日用雑貨を作って売るわけです。

その土地にどんな作物が適しているかなど、やってみなければわかりません。だからいろんな作物を植える。

ちょっと耕地が出来たら、そこに何か植えてみる、耕地が広がれば、今までうまく行った作物プラス他の作物も植えてみる。

バスなんかは走ってませんから、味噌なども自給自足です。

つまり、明雄さんの「スーパー」ぶりは、過去の苛烈な経験のたまものなんです。


私たちは、このような誤解をしている場合が多かったりします。

昔の農家は、専業農家が多かった。「米どころ」では、お米ばかりを作っていた。今は、兼業農家が増えた。

これは、ちょっと違います。
新潟にしても、東北や北陸の米どころにしても、農閑期、男たちは、出稼ぎに出たのです。

1964年の東京オリンピックは、「東北の出稼ぎ人夫のおかげで成功した」と言われます。

また、米どころでも米ばかりではなく、あぜに、枝豆を植えたり(これが「ずんだ」の発祥です)、藍や紅花や、養蚕もしていました。

今は、スーパーへの販売とかで、米専門、トマト専門、レタス専門とかの農家も増えてきましたが、基本、いろんな作物や、土木作業なども交えながら、日本の農家は生きてきたのです。

今でも、知り合いの岩手の山ぶどう農家さんは、国内有数の山ぶどう生産者でありつつ、豚も飼っていて、秋にはマツタケも採りにいきます。

(岩手は長野と、日本一、二を争う、マツタケ産地です)

漁村もそうです。
例えば、アワビ漁は、漁協によって微妙に違いますが、解禁(「口開け」と呼ばれます)が、 年に数日だけです。

普通はサラリーマンで、その時だけ、アワビ漁師(漁協の許可が当然必要です)となり、100万円近く稼ぐ人もいます。

実は、この人たちがたくさんいると、アワビは一度、漁協に集められます。漁協が販路を作って売るわけですからね。
組合全体のもうけが増えて、いろんな設備を充実させることができるのです。

これは、ほんの一例ですが、多様性が農村、漁村の永続性を担保してきたことが、お分かりになると思います。

多様性が、漁村、農村を栄えさせてきた。衰亡から救ってきたのです。

今、農作物、水産物の生産から、工場での加工、販売までを含めて、「六次産業化」(一次産業に、二次産業と三次産業を加えて、全体を一貫させる)が声だかに叫ばれていますが、それは、昔からそうだったのです。

三瓶明雄さんは、まさに「生きた六次産業」と言えたかもしれませんね。


東北は特に、昔から寒さが厳しくて、寒さに適応した、いろんな作物、また半農半漁の生業で、人々は、暮らしてきました。

しかし、伊達政宗のころから、また、明治維新以来さらに、東北は米作が強烈に推進されていき、そして、なんと、米作が盛んになってから、気候変動に弱くなり、凶作が増えていきました。

東北の農村の凶作、飢餓、娘身売りは、東北の問題ではなく、多様性を壊していった国側の問題でもあったのです。

だから、私たちも「~県といえば、米」「~県といえばリンゴ」みたいな、画一的な反応は避けた方がいいように思えます。

 


解説
東北の農村の凶作、飢餓、娘身売りは、東北の問題ではなく、多様性を壊していった国側の問題でもあったのです。
だから、私たちも「~県といえば、米」「~県といえばリンゴ」みたいな、画一的な反応は避けた方がいいように思えます。

いつも友岡さんのエッセイではいろいろ勉強になります。


友岡雅弥さんのエッセイが読める「すたぽ」はお勧めです。

 


獅子風蓮


友岡雅弥さんの「地の塩」その22)釜ヶ崎から住民を追い出して星野リゾート?

2024-06-11 01:51:03 | 友岡雅弥

友岡雅弥さんは、執筆者プロフィールにも書いてあるように、音楽は、ロック、hip-hop、民族音楽など、J-Pop以外は何でも聴かれるとのこと。
上方落語や沖縄民謡にも詳しいようです。
SALT OF THE EARTH というカテゴリーでは、それらの興味深い蘊蓄が語られています。
いくつかかいつまんで、紹介させていただきます。


カテゴリー: SALT OF THE EARTH

「地の塩」という意味で、マタイによる福音書の第5章13節にでてきます。
(中略)
このタイトルのもとに書くエセーは、歴史のなかで、また社会のなかで、多くの人々の記憶に刻まれずにいる、「片隅」の出来事、エピソー ド、人物を紹介しようという、小さな試みです。

 


Salt41 - ジェントリフィケーションってどうなん?

2018年10月22日 投稿
友岡雅弥


先日、信頼している後輩が、留学中のアメリカから一時帰国してきました。

彼は、アフリカのある国とコリアンとのダブルで、日本国籍。

ものすごく、良心と知性を兼ね備えたひとです。スポーツできるしね。

いろんなことを話してたんですが、ちょうど、彼の今、住んでいるところが、「ジェントリフィケーション」のまっただなかなんです。

「ジェントリフィケーション」というのは、前にも述べましたように、中低所得者層が住む、安い公営住宅などが民間に払い下げられ、民営化され、そこに高級住宅街ができたりすることなんです。

ジェントリフィケーション、gentrificationは、「高級化」とかいう訳ですが。

(この「民営化」っての、英語のprivatization の訳なんですが、「私有化」ですよね。普通、どう考えても)


さて、彼が住んでいる地域も、ご多分に漏れず、ジェントリフィケーションによって、家賃が、暴騰してしまった!

到底、学生が住めないような状態になってしまいました。

また、低賃金労働者も、住めないようになって、どんどん出ていってるそうです。

大ヒットした、テンプテーションズの「ラン・チャーリー・ラン」の世界ですね。

一昨年でしたっけ、同じくアメリカ在住の友人ご夫妻が、来日されたんですが、お二人も、同じことをいってました。

土地が、ブローカーによって買い占められ、高級集合住宅とかがバンバン建って、そこが世界中の金持ちの投資対象となってる。だから、知りあいも、そこに住むことができなくなって、どんどん出ていっている、という話です。

今、釜ヶ崎は、火事になったりしたドヤがどんどん壊されて、デザイナーズ・ホテルとかが建っています。
それから、釜ヶ崎のすぐ北側、JR新今宮駅の反対側に、巨大な空き地があるんですが、そこが、星野リゾートに払い下げられました。

星野リゾートが、「星野リゾート」っぽいホテルを建てるのでしょう。

約14,000平方メートル。かなりの広さですが、価格は18億円ほどです。 購入者はミナミホテルマネジメント社というところですが、ここに建つ予定のホテルの事業者が、星野リゾートです。

もともとは、クラブ化粧品の工場だったんですね(今は、株式会社クラブコスメチックスという名前で、大阪市西区に本社があります)。

1918年、当時中山太陽堂と言ったクラブコスメチックスが、ここに本社・工場を作ったのです。

中山太陽堂は、「クラブ白粉(おしろい)」が爆発的に売れました。実は、それまで白粉は、有害な鉛が入っており、その被害が多くでていました。当時の社長、中山太一はそのことに心を痛め、鉛を入れない白粉を開発したんです。

当時の社長・中山太一は、当時釜ヶ崎にあった、生活のために働かざるを得ない少年少女のための学校(徳風勤労学校。創立は、あのクボタの創業者、久保田権四郎です)に、診療所を寄付したりしています。

と同時に、子どもたちに質のいい文房具をということで、日本文具製造株式会社を設立、改名してプラトン文具となりました。プラトン文具も、この星野リゾート・ホテル予定地にありました。

そして、プラトン社という出版社も。

執筆陣は、幸田露伴、谷崎順一郎、永井荷風、川口松太郎、室生犀星、岸田劉生、小山内薫、久保田万太郎、泉鏡花、与謝野晶子、山本有三、岸田劉生。

そして、なによりも、その表紙や挿絵やタイポグラフィーには、日本のグラフィックデザインの先駆・山名文夫、天才装丁家・山六朗、挿絵の第一人者・岩田専太郎。

関東大震災で被災し、家族も会社も失ったシャープ創業者の早川徳次さんや、直木賞に名を残す直木三十五も、まさに、ここに転がり込んできて、中山太一のもとで、暮らしを建て直すことができました。


1970年の大阪万博以前、釜ヶ崎には、多くの子どもたちが住んでいました。世界の普通のスラムと同じく、子どもがいて、夫婦がいて、高齢者がいたのです。

それが、万国博覧会建設の若い労働者を全国から寄せてきて、その労働者のための宿泊地として、釜ヶ崎に目をつけた、政府と大阪府は、釜ケ崎のドヤの大家さん、オーナーさんたちに圧力をかけて、子どもたちや高齢者のいる家族を追いだしたのです。

でも、仕事は、釜ヶ崎の寄せ場で見つけなければならないので、追い出された家族は、釜ヶ崎周辺のアパートに引っ越しました。

星野リゾート建設予定地周辺には、ドヤと同じように、日払い、礼金、敷金、権利金なしの、アパートがたくさんあります。それは、この釜ケ崎を追い出された家族が住むアパートだったのです。

今も、たくさんあります。

星野リゾートが建って、 風景はどのように変わるのでしょうか?

それから、クラブ化粧品が、別の場所に引っ越してから、この場所は、警察の機動隊の駐屯地になりました。釜ヶ崎で、行政のありかたに我慢ならないと、労働者が権利要求運動をするたびに、メディアは「暴動」とかき立て、この駐屯地から「鎮圧」のために、最新鋭の放水車と大勢の警官が、新今宮駅の反対側すぐの、釜ヶ崎に飛び出していきました。

橋下前市長のもとで、釜ヶ崎は、「西成特区構想」として、若い世代を呼び込むことができる町へと、変化して行くことが決まってしまいました。

でも、行政の都合で、子どもたちもたくさんいた釜ヶ崎が、日本最大の日雇い労働者の町になった(三万数千人)。その人々が、日本中に散らばって、道路を作り、ダムを造り、ビルを作ってきたんです。

日本が高度経済成長できたのは、その人たちの汗の結晶です。その人たちが働けなくなり、高齢化したら切り捨てる、そんなことをしていいのかな、と思います。


特区構想の特別顧問は、釜ヶ崎をショッピングモールやマンションの街にするといい、釜ヶ崎に今住む高齢者を「スムーズに退出させる」と明言しました(2012年7月3日第2回有識者座談会)。

なんかなぁと思います。でも、みなさんに、少しでも、「現場」「現地」のリアリティを知っていただきたいと、書きました。

 

 


解説

__釜ヶ崎から住民を追い出して星野リゾート?

なんかなぁと思います。でも、みなさんに、少しでも、「現場」「現地」のリアリティを知っていただきたいと、書きました。

 

考えさせられました。


友岡雅弥さんのエッセイが読める「すたぽ」はお勧めです。

 


獅子風蓮


友岡雅弥さんの「地の塩」その21)キング牧師とともに歩む

2024-06-10 01:58:13 | 友岡雅弥

友岡雅弥さんは、執筆者プロフィールにも書いてあるように、音楽は、ロック、hip-hop、民族音楽など、J-Pop以外は何でも聴かれるとのこと。
上方落語や沖縄民謡にも詳しいようです。
SALT OF THE EARTH というカテゴリーでは、それらの興味深い蘊蓄が語られています。
いくつかかいつまんで、紹介させていただきます。


カテゴリー: SALT OF THE EARTH

「地の塩」という意味で、マタイによる福音書の第5章13節にでてきます。
(中略)
このタイトルのもとに書くエセーは、歴史のなかで、また社会のなかで、多くの人々の記憶に刻まれずにいる、「片隅」の出来事、エピソー ド、人物を紹介しようという、小さな試みです。

 


Salt39 - キング牧師とともに歩む

2018年10月8日 投稿
友岡雅弥

Martin Luther King, Jr.が撃たれて、今年(2018年)の4月4日で、ちょうど50年。

Martin Luther King, Jr.牧師といえば、「私には夢がある(I Have a Dream)の演説が有名です。

駐日アメリカ大使館のウェブサイト
(https://americancenterjapan.com/aboutusa/translations/2368/)に載っている、同演説の日本語訳から、該当部分を抜き出します。

でも、アメリカ政府に抗議したデモの演説を、アメリカを象徴する歴史的文章として、大使館とかのウェブサイトに載せているというのは、残念ながら日本では考えられないですね。

日本でいえば、例えば、足尾鉱毒事件の田中正造翁の「直訴状」とかが、日本政府の公式ウェブサイトに載ってるということですからね。

__________________

絶望の谷間でもがくことをやめよう。友よ、今日私は皆さんに言っておきたい。われわれは今日も明日も困難に直面するが、それでも私には夢がある。それは、アメリカの夢に深く根ざした夢である。

私には夢がある。それは、いつの日か、この国が立ち上がり、「すべての人間は平等に作られているということは、自明の真実であると考える」というこの国の信条を、真の意味で実現させるという夢である。

私には夢がある。それは、いつの日か、ジョージア州の赤土の丘でかつての奴隷の息子たちとかつての奴隷所有者の息子たちが、兄弟として同じテーブルにつくという夢である。

私には夢がある。それは、いつの日か、不正と抑圧の炎熱で焼けつかんばかりのミシシッピ州でさえ、自由と正義のオアシスに変身するという夢である。

私には夢がある。それは、いつの日か、私の4人の幼い子どもたちが、肌の色によってではなく、人格そのものによって評価される国に住むという夢である。

今日、私には夢がある。

私には夢がある。それは、邪悪な人種差別主義者たちのいる、州権優位や連邦法実施拒否を主張する州知事のいるアラバマ州でさえも、いつの日か、そのアラバマでさえ、黒人の少年少女が白人の少年少女と兄弟姉妹として手をつなげるようになるという夢である。

今日、私には夢がある。

私には夢がある。それは、いつの日か、あらゆる谷が高められ、あらゆる丘と山は低められ、でこぼこした所は平らにならされ、曲がった道がまっすぐにされ、そして神の栄光が啓示され、生きとし生けるものがその栄光を共に見ることになるという夢である。

これがわれわれの希望である。この信念を抱いて、私は南部へ戻って行く。この信念があれば、われわれは、絶望の山から希望の石を切り出すことができるだろう。この信念があれば、われわれは、この国の騒然たる不協和音を、兄弟愛の美しい交響曲に変えることができるだろう。この信念があれば、われわれは、いつの日か自由になると信じて、共に働き、共に祈り、共に闘い、共に牢獄に入り、共に自由のために立ち上がることができるだろう。

__________________

この歴史に残る演説は、Martin Luther King, Jr.が暗殺される5年前。 公民権運動のピークとも言うべき、ワシントン行進で、全国から集まった20数万人の人々の前で行われたものです。(1963年8月28日、ワシントンD.C.リンカーン記念堂)。

直接的には、その演説の直前、「ゴスペルの女王」マヘリア・ジャクソンが、Martin Luther King, Jr. に、「あなたの夢を語って」と呼びかけたことが動機ですが、実は、同じようなフレーズをすでにスピーチしていたのです。

その2ヶ月ほど前の6月23日、ミシガン州デトロイトで。

この時、デトロイトでは、地元のキリスト教指導者たちがデモを企画し、デモには、1万数千のひとたちが集まり、1州の公民権運動としては、最大の参加者を見たわけです。

そして、デトロイトの中心街のコーボー・ホールで、決起集会が行われ、そこでMartin Luther King, Jr. 牧師が演説するわけです。

__________________

だから今日の午後、 私には夢がある。 それはアメリカの夢に根ざした夢である。
私は、いつの日かジョージアとミシシッピーとアラバマで、昔の奴隷の子孫と奴隷主の子孫とが兄弟同士として、共に生きることができるだろうという夢を持っている。

今日の午後、私には夢がある。(「私には夢がある!」)それはいつの日か、(拍手)いつの日か、小さな白人の子供と小さな黒人の子供が、兄弟姉妹として握手することができるだろうという夢である。

(以下略)

__________________

ワシントン行進の時のスピーチは即興だと言われますが、おそらく、このデトロイトのスピーチでのモチーフがMartin Luther King, Jr. 牧師の脳裏の浮かんだと思います。


さて、このデトロイトの集会ですが、企画の中心者が誰だったか。


C.L.フランクリンです。全米のキリスト教公民権運動の中心者の一人です。


そして、彼の娘は……。

アリーサ・フランクリンです。


今年(2018年)8月18日に亡くなった、グラミー賞受賞20回の、「ソウル・ミュージックの女王」アリーサ(アレサ)・フランクリンなんです。

彼女、そして、マヘリア・ジャクソン、そして、同じくアメリカの国民的ゴスペル、リズム&ブルーズ・グループ、ステープル・シンガーズが、常に、Martin Luther King, Jr. 牧師と行動をともにしていました。


アリーサの死に際して、さまざまな海外メディアが、公民権運動との関わりを伝えていました。アリーサは、父とともに、 Martin Luther King, Jr. 牧師の運動に参加し、ゴスペルを歌い、そして、1967年に発表したシングル"Respect" は、全米1位を記録しました。

それは、アフリカ系アメリカ人や女性、またさまざまなマイノリティの人々の「尊厳」を訴える内容でした。

アメリカにある世界的な「ロック博物館」である「ロックの殿堂」は、同曲を「ポピュラー音楽における不朽の金字塔」と最大限に評価しています。


実は、もともと、この曲は、不世出のソウルシンガー、オーティス・レディングの曲で、もともとは仕事がおわり、家に帰ってきた夫が妻に、

「こんなに疲れて帰ってきたんだから、俺のことを大事にしてくれよ」

というジェンダー的には問題のある歌だったんです。

もちろん、当時はアメリカでも、男女平等などは程遠く、女性は家事に勤しむもの、というのが常識だった時代です。

それが、アリーサは「女性」に対する、人としての「敬意」という意味に変えて歌ったんです。

だから、アフリカ系アメリカ人だけではなく、女性の権利獲得運動に、彼女は大きな勇気を与えました。

また、キャロル・キングとジェリー・ゴフィンの黄金ソングライター・チームが作った1967年の大ヒット曲'You Make Me Feel Like A Natural Woman' は、映画のテーマやいろんなアーティストのカバーで、今や、LGBTなど様々な運動のアンセムとなっています。

ローリングストーン誌の選ぶ「歴史上最も偉大な100人のシンガー」の第1位となったアリーサの、若き日の大きな歩みは、アフリカ系アメリ力人を初めとするさまざまなマイノリティの権利獲得の運動と、同じ歩調で、前進したのです。

 


解説
Aretha Franklin - Respect (Official Lyric Video)
https://www.youtube.com/watch?v=A134hShx_gw

YouTubeで聴いてみました。
友岡さんの記事を読んで、はじめてこの曲の意味が分かりました。

 

友岡雅弥さんのエッセイが読める「すたぽ」はお勧めです。


獅子風蓮