獅子風蓮のつぶやきブログ

日記風に、日々感じたこと、思ったことを不定期につぶやいていきます。

石橋湛山の生涯(その12)

2024-06-13 01:15:40 | 石橋湛山

石橋湛山の政治思想に、私は賛同します。
湛山は日蓮宗の僧籍を持っていましたが、同じ日蓮仏法の信奉者として、そのリベラルな平和主義の背景に日蓮の教えが通底していたと思うと嬉しく思います。
公明党の議員も、おそらく政治思想的には共通点が多いと思うので、いっそのこと湛山議連に合流し、あらたな政治グループを作ったらいいのにと思ったりします。

湛山の人物に迫ってみたいと思います。

そこで、湛山の心の内面にまでつっこんだと思われるこの本を。

江宮隆之『政治的良心に従います__石橋湛山の生涯』(河出書房新社、1999.07)

□序 章
□第1章 オションボリ
□第2章 「ビー・ジェントルマン」
■第3章 プラグマティズム
□第4章 東洋経済新報
□第5章 小日本主義
□第6章 父と子
□第7章 政界
□第8章 悲劇の宰相
□終 章
□あとがき

 


第3章 プラグマティズム

山梨県立甲府中学校を53人中、17番目という普通の成績で卒業した湛山は、日謙夫妻や長遠寺の兄弟弟子に祝福されて東京に出た。湛山は、第一高等学校(旧制。現在の東京大学教養学部)に入学するつもりでいた。
当時は中学を卒業すると、高校の入学試験は7月、新学期は9月であった。だから4月から7月の試験までが、直前の受験期間になる。
湛山は学力には自信があった。中学を2回も落第したが、それでも「やれば出来るし、その自信もある」と思っていた。学力が追いつかないで落第したわけではなかったからである。
上京すると転がり込んだのは、芝区魚籃坂にある母の家であった。父親の湛誓は静岡の本覚寺にいたが、母親のきんと弟、妹たちは東京に戻っていた。湛山は、束の間の母や弟、妹たちとの普通の生活を楽しんだ。だが、精神の安らぎは、本当に束の間で、後は脇目も振らず一高受験に邁進した。久しぶりの母親の優しさに浸る間もなかった。
受験勉強の3ヶ月は、瞬く間に過ぎた。
自信を持って臨んだ一高受験だったが、結果は散々であった。湛山は、自分が自信満々だったことが、やはり「井のなかの蛙」であったのだと得心した。
「田舎の秀才、ってことかな」
「全国から秀才が集まるんだから、おまえが格別駄目だったというわけではないさ。そんな言い方をしないで、若いんだから、もう一度来年に賭けてみたら?」
きんは、慰めるのでなく言った。過ぎ去ったことでくよくよしても始まらない。それよりも次への準備を怠るな、と言うのである。

(つづく)


解説

湛山は、第一高等学校をまさかの不合格となります。

でも、来年にかけるのでした。

 

獅子風蓮