獅子風蓮のつぶやきブログ

日記風に、日々感じたこと、思ったことを不定期につぶやいていきます。

石橋湛山の生涯(その9)

2024-06-04 01:05:38 | 石橋湛山

石橋湛山の政治思想に、私は賛同します。
湛山は日蓮宗の僧籍を持っていましたが、同じ日蓮仏法の信奉者として、そのリベラルな平和主義の背景に日蓮の教えが通底していたと思うと嬉しく思います。
公明党の議員も、おそらく政治思想的には共通点が多いと思うので、いっそのこと湛山議連に合流し、あらたな政治グループを作ったらいいのにと思ったりします。

湛山の人物に迫ってみたいと思います。

そこで、湛山の心の内面にまでつっこんだと思われるこの本を。

江宮隆之『政治的良心に従います__石橋湛山の生涯』(河出書房新社、1999.07)

□序 章
□第1章 オションボリ
■第2章 「ビー・ジェントルマン」
□第3章 プラグマティズム
□第4章 東洋経済新報
□第5章 小日本主義
□第6章 父と子
□第7章 政界
□第8章 悲劇の宰相
□終 章
□あとがき


第2章「ビー・ジェントルマン」

(つづきです)

学校の名称が山梨県第一中学校(のちにさらに山梨県立第一中学校)と変わった。その前後から生徒、教員、卒業生が加わった組織・校友会の機関誌として『校友会雑誌』が1年に4、5冊発行された。
校友会とは、相互の親睦と文武の奨励を目的にした組織であった。
省三は、この『校友会雑誌』を通じて文章を書く面白さと、評論を展開させる意義を知った。 
「石橋君、『校友会雑誌』に何か書かないかい?」
省三が深く尊敬する漢文の香川香南から執筆を勧められて、省三は筆を執った。以前から歴史上の人物でどうしても気になった武将がいた。
「誰もが誹るような人物ですが、僕は違うと思うのです」
それが、明治33年6月発行の『校友会雑誌』8号の論説「石田三成論」であった。
「ふうむ、筆名は坐忘というのか。なかなかよく出来た論説だ。引き込まれて読んだよ。君は文章の才能があるんだな。見込んだとおりだった」
香南は嬉しそうに言って、刷り上がったばかりの『校友会雑誌』を省三に手渡した。そこには「石田三成論  4年級 石橋坐忘」とあった。省三は満足そうに自分の文章を読み返してにんまりした。
その内容は、石田三成を「軽薄な小人」と決めつけたのは徳川幕府のもとに生息した儒教徒たちであって、本当は違っているのだ、というものであった。
論文は織田、豊臣の時代を生きた武将の中で唯一、豊臣のために家康と争う気概を示したのは三成であったとして、
〈三成をして初めより武将の家に生まれしめば、帝国の歴史は幾何の変化を与へたりしか亦悲しからずや〉、〈斯くの如くして、彼は最後の大事に敗れたり。然れども成敗と是非とは判然別事に属せり、成敗は当時の形勢によりて分かれ、是非は後人の公説によりて定まる。然るに東洋の史伝由来好悪によりて、事実を矯け成(成功)を正とし敗(敗北)を邪とするの陋見に出づる者多し〉
などと、三成の弁護と評価の見直しを訴えている。この時期に、不人気の筆頭ともいえる石田三成を擁護しようという省三の心意気は、先入観や他人の評価でたとえ歴史上の人物といえども見ない、つまりは自分の視点をはっきりさせておく、という以後の生き方の基本につながるものであった。
省三はこの「三成論」をきっかけにして、次から次へと「校内の論者ぶり」を周囲に示すようになる。
同時に学術部会では英文を朗読したり、演説をしたりする。それも「古今亡国を例証して大いに義に拠らざるべからず」などのように、単に中学校の校友会といった範囲にとどまらないスケールの大きな命題が多かった。さらに省三は、学術だけでなく剣道にも一層励むようになった。
夏の終わり、中巨摩郡東南湖村(現在の甲西町東南湖)で撃剣会が開かれた。省三も入っている武徳会の地方研修会ともいえた。
「石橋、おまえも出てみんか」
川崎師範に誘われて、一瞬省三は戸惑った。
「先生、僕は口先ではかなり剣士らしい天晴れなことを言いますが、実は腕前のほうは……」
「分かっている。それは石橋ばかりじゃあない。荒井も三科も保坂もみんなそうだ。だから、他流試合、ってわけだ。竹刀と防具を持って明日の朝8時に集合だ」
省三たちにとって、学校内の試合は度々やっているものの、外に出ての試合は初めてのことだった。今のように、県大会も全国大会もない時代である。剣道や柔道は、身体を鍛えるためだけのものであった。
当日、省三たちは馬車3台で東南湖村に向かった。
「東南湖というところは、僕がお世話になっている日謙師の長遠寺がある鏡中条村と、子供の頃に両親と一緒に住んでいた昌福寺のある増穂村のちょうど中間にあるんだ」
省三は、馬車の中で友人たちに語って聞かせた。長い釜無川の土手を通り抜けて東南湖に入ると、懐かしそうに目を細めて、あちこち見回し、
「ほら、この駿州往還を南に真っすぐ行けば、増穂村なんだ」
小さな馬車は、でこぼこ道に大きく揺れて正座している省三たちは肩と肩をぶつけた。それでも、何か遠足に行くような楽しさと、行く先で待っている剣道の試合への緊張感で、 省三は車内の狭さも揺れも、気にならなかったし、しびれも知らずにすんだ。
省三たちが到着して間もなく、甲府から数人の「剣士」といわれる人々がやってきた。主催者の一人は、地元の剣士として甲府にまで知られていた有泉という老人であった。
試合は、昼食の後だった。
東南湖村のちょうど中央に八幡神社があり、そこに案内されると境内に天幕が張ってあった。省三たちの緊張はさらに高まった。
「さあさあ、皆さんはここにお座りなさい。ああ、一番いい席で見物するがいい。腕を磨くには、先ず本物の強さとは何かを知ることですから」
有泉老人はそう言って、省三ら4人の少年剣士を境内の粗筵の敷かれた一番前の席に座らせた。
「後で、村の若い衆とひとつ試合をやってもらいますよ。そうは言っても、最近の村の若い衆も乱暴だけの奴と、ぐにゃぐにゃとした軟派野郎のどっちかで、剣道なんぞで尚武の気概を育てようなんて奴は少なくなっているんですよ」
老人は、村の若い人々の悪風をそんなように説明した。それから、4人を代わる代わる見比べて、「あんたたちは、みんないい顔をしている。頑張ってくださいよ。これからのお国のためにねえ」
そう言って微笑んだ。
試合が開始された。
省三は、食い入るように見つめた。
「虎争、竜闘とはこのことだな」
仕合っている二人から目を逸らさずに省三は隣に座っている荒井金造の耳元に囁いた。
「ああ、雷逝、風馳そのものだ」
荒井も同じように、目で二人の動きを追いながら答えた。
驚いたのは、片腕の剣士が登場したことであった。
「剣道というものは、片腕でも立派に出来るものなんだ。要は、その人間の気概と修練なんだ」
省三は、後に荒井に感想をそう語った。
有段者たちの試合はどれも素晴らしく、省三は何かを見ながら手に汗を握る、という初めての経験をした。
いよいよ省三たちの試合である。
村の若い衆が4人、支度をして並んだ。省三たちも防具を付けて相対した。ここでは先鋒も次鋒もなかった。荒井が初めに立ち、省三は最後であった。
有泉老人は、村の若い者は駄目だから、という意味のことを言っていたが、それは省三たちに安心感を与えるためだったらしいと気づいたのは、荒井が簡単に面を取られてしまったのを見た時であった。
「あいつら、結構やるよ」
荒井は、悔しい表情で省三に囁いた。
保坂も小手を打たれて敗れ、三科は辛うじて相手の面を取って勝った。
「石橋、おまえが勝ってやっと五分五分だ。頑張ってくれよ」
荒井が励ます。省三は黙って頷き、面を被り、落ち着いて竹刀の先を相手に合わせた。
何度も打ち合ったが、省三も相手も共に決定的な一本には結びつかない。省三は全身に汗を掻き、疲労感を持った。
(待てよ、相手だって同じはずだ。疲労は一緒だ。ここを乗り切るしかない。技ではない。後は精神の勝負だ)
省三は相手の目を見た。ふっと、相手が面の中で目を逸らした。その瞬間、省三は、
「面!」
と打って出た。
が、その竹刀は躱(かわ)されて逆に相手は抜き胴を狙ってきた。
省三は下がらずに、そのまま竹刀を突き出した。
手応えがあって、竹刀が相手の喉に入っていった。
「勝負あり」
審判の声と同時に拍手が会場内に湧いた。
「いい試合を見せてもらったよ。あんたは、稚児さんのような可愛い顔をしているのに、あんなに強いとはな。見直したよ」
有泉老人が、心底嬉しそうに笑った。後で聞くところでは、省三の相手は老人の孫であった。この剣道大会は、省三の心に長く残るものになった。

「ごらん、省三のあのがむしゃらな様子を。あいつは傍から見ても、しっかり文武両道に励んでいるのが分かる」
「本当に、御前様が2度の落第をまったく叱りもしないで許してあげたことが、実を結んだんですね」
日謙夫妻はそんなふうに、相変わらず穏やかな視線で省三を見つめている。

次に『校友会雑誌』に石橋省三の本名で書いた「消夏随筆」では、当時の仏教界を痛烈に批判した。そして仏教のあるべき姿として日蓮上人を讃えている。
〈一千年以上、吾が国に同化したと言はるる仏教、サテモ其勢力は現今日本の社会の何処にある。――墓場にか、――建物にか、――果た葬式にか、――良くいつて、――加持祈祷、――恐らく、是等の外には出でまいと思ふ〉
そんな書き出しで仏教を揶揄し、僧侶や信徒を批判、
〈すでに、墓の外、葬式の他には、実力を失ふた仏教が、などて、国教とする価値があらう〉、〈実に、今日の仏教僧などは、却て仏教をつぶす悪魔である〉
だが、日蓮上人については、『開目鈔』の「我れ日本の柱とならん、我れ日本の眼目とならん、我日本の大船とならん」を引いて、
〈上人は実に血と涙とで出来た様な人であつた。四箇の大難、数々の小難に挫けず、遂に日蓮法華宗を弘通したる其の有様、実に、吾れ吾れ薄志弱行の士の教訓になる〉、〈吾れは、斯の様に血と涙とを以て、国の為めに尽す様な人物を是非現今日本の社会へ欲しい。 宗教界にせよ、政治界にせよ〉省三は中学校時代にすでに、後のジャーナリスト石橋湛山の下地を作りつつあった。

(つづく)


解説
文武両道に励む省三でした。

 

『校友会雑誌』に石橋省三の本名で書いた「消夏随筆」では、当時の仏教界を痛烈に批判した。そして仏教のあるべき姿として日蓮上人を讃えている。

湛山の日蓮観が分かる貴重な情報です。


獅子風蓮