獅子風蓮のつぶやきブログ

日記風に、日々感じたこと、思ったことを不定期につぶやいていきます。

石橋湛山の生涯(その20)

2024-06-21 01:39:44 | 石橋湛山

石橋湛山の政治思想に、私は賛同します。
湛山は日蓮宗の僧籍を持っていましたが、同じ日蓮仏法の信奉者として、そのリベラルな平和主義の背景に日蓮の教えが通底していたと思うと嬉しく思います。
公明党の議員も、おそらく政治思想的には共通点が多いと思うので、いっそのこと湛山議連に合流し、あらたな政治グループを作ったらいいのにと思ったりします。

湛山の人物に迫ってみたいと思います。

そこで、湛山の心の内面にまでつっこんだと思われるこの本を。

江宮隆之『政治的良心に従います__石橋湛山の生涯』(河出書房新社、1999.07)

□序 章
□第1章 オションボリ
□第2章 「ビー・ジェントルマン」
■第3章 プラグマティズム
□第4章 東洋経済新報
□第5章 小日本主義
□第6章 父と子
□第7章 政界
□第8章 悲劇の宰相
□終 章
□あとがき

 


第3章 プラグマティズム

(つづきです)

湛山は後年、王堂との出会いを回想して次のように語っている。
「私は先生によって、初めて人生を見る目を開かれた。先生の思想は深かったが、学問も広かった」
甲府中学校で大島正健から「私の一生を支配する影響を受けたのである」と述べた湛山は、早稲田大学で田中王堂によって「人生を見る目を開かれた」というのである。
それも甲府中学校での2回の落第、第一高等学校の2回の受験失敗が、もたらしてくれたものだった。
「合わせて4年の失敗がなかったなら、私はどちらの師にも会うことは出来なかった」
それが湛山の実感であった。
卒業した後も、湛山は大学時代の友人である関与三郎、杉森孝次郎、大杉潤作らとともに王堂に私淑した。学問のうえの付き合いだけでなく、借金に悩まされ続けた王堂の生活にまで立ち入ったほどである。
王堂は、明治40年代から大正にかけて思想評論壇で活躍する。個人主義、自由主義に立脚したその独創的で雄渾な文明批評は時代を風靡した。明治44年(1911)に出版された『二宮尊徳の新研究』は、プラグマティズムの神髄を語るものとして評価が高い。しかし、王堂はそれでも不遇な生涯に変わりはなかった。王堂は昭和32年(1932)に病死するが、その死後、『王堂全集』の出版に湛山は友人たちと奔走する。湛山と王堂の出会いは、湛山だけに有用であったのでなく、王堂にとっても意義のあるものになったのだ。
湛山は中学時代に、暇を見つけては大島正健を校長室に訪ねたように、早稲田では王堂を講師室に訪ねた。講師室は赤煉瓦で覆われた二階建て大講堂の一階にあった。今のように専用の講師部屋がそれぞれにあるのではなく、教授や講師がみんなで一室を使っていたのだった。
「先生、ここに来ると面白いですね。いろいろな先生の本当の姿が分かります」
「石橋君、覗き見はいかんよ」
そう言いながら王堂も面白がっている様子が湛山には分かった。この講師室で湛山は王堂とよく語った。
「先生、私も中学で2回、高校受験に2回失敗して、合わせて4年を無駄にしました」
「ほう、僕と同じような学生がいたんだねえ」
王堂は、湛山の話に興味を持った。そして湛山自身にも興味を持った。
「私は、日蓮宗の僧侶の家に生まれました。私自身も得度しております」
「じゃあ、将来はお坊さんになるのかい?」
「何とも言えません。ただ、以前は医者と宗教家を兼ねたような仕事を考えていたのですが……。今はまた別のことを考えています」
「君、哲学者になるなんて言い出すなよ。食えないよ。もっとも大学に残って教授になるというのは、手でもあるがね」
「……」
湛山は、王堂にプラグマティズムを教わって、自分の皮膚感覚に合った哲学にやっと出会えた、という意味のことを述べた。
「ですから私の基本には、日蓮宗の教えがあります。日蓮上人という人は、偉大な宗教家であり、哲学者だと思っています。加えて、私は中学校の恩師・大島正健先生によって教えられたクラーク博士のアメリカ的民主主義思想とキリスト教的博愛主義を身につけたと自負しています」
「ほう、あのクラーク博士の……。大島正健という人のことは知らないが、クラーク博士の札幌農学校での教え方については聞き知っている」
「はい、大島先生は札幌農学校の第一期生でクラーク博士の愛弟子でした」
「あのキリスト教思想家の内村鑑三先生や今の第一高等学校校長の新渡戸稲造先生などの先輩にあたる人なんだね」
「はい、そう聞いております」
「なるほど、君は中学校時代に素晴らしい先生に巡り合ったんだねえ」
「大島先生から私はクラーク博士の『ビー・アンビシャス』、『ビー・ジェントルマン』という自主自立・自己責任の精神を教えられました。私は、クラーク博士の孫弟子を自認しています」
「ははは、孫弟子はいいねえ。うん、とてもいい考えだ。すると今度は……」
「田中王堂先生からジョン・デューイ教授のプラグマティズム哲学を伝授されましたから、私はデューイ教授の孫弟子でもあります」
「君はいくつになった?」
「はい。21歳になります」
「若いねえ。若い人はいい。……よろしい。私が認めよう。君はジョン・デューイ教授の孫弟子で、 日本におけるプラグマティズム哲学の具現者の一人だ」
「ありがとうございます」
「石橋君、ひとつだけ忠告しておこう。多分君なら大丈夫だろうが。熱くなるな、ということだ。ジョン・デューイ教授のプラグマティズムには、一方で、物事を冷徹に見て客観視せよ、という面もある。それは自分自身についてもだ。先ほど君が話してくれた大島先生から受けた教え、それに日蓮宗徒としての規範。これらに客観視が加わればそれはもう、日本における新しい哲学の実践と言ってもおかしくはないよ。頑張りなさい」
湛山自身の思想は、ここで確立されたと言っても過言ではない。
湛山が確立した思想とは、「一切の行為の規準を自主に求める個人主義。この個人主義を、他人や社会に迷惑をかけない限り認めようとする自由主義。そして、個人個人が持ついろいろな欲望を、悪いものでなくむしろ社会が発展していくうえで大事な力であると捉え、それを積極的に肯定しようという実利主義、功利主義を融合させた考え方」であった。これは、「個人を尊重」しながら一方で「欲望を抑える」という、いわば「新自由主義」とも言えた。そして、以後の湛山の歩む道は、この考え方に貫かれていく。

(つづく)


解説

「石橋君、ひとつだけ忠告しておこう。多分君なら大丈夫だろうが。熱くなるな、ということだ。ジョン・デューイ教授のプラグマティズムには、一方で、物事を冷徹に見て客観視せよ、という面もある。それは自分自身についてもだ。先ほど君が話してくれた大島先生から受けた教え、それに日蓮宗徒としての規範。これらに客観視が加わればそれはもう、日本における新しい哲学の実践と言ってもおかしくはないよ。頑張りなさい」
湛山自身の思想は、ここで確立されたと言っても過言ではない。

湛山の思想はこのようにして形成されていったのですね。

 

湛山が確立した思想とは、「一切の行為の規準を自主に求める個人主義。この個人主義を、他人や社会に迷惑をかけない限り認めようとする自由主義。そして、個人個人が持ついろいろな欲望を、悪いものでなくむしろ社会が発展していくうえで大事な力であると捉え、それを積極的に肯定しようという実利主義、功利主義を融合させた考え方」であった。これは、「個人を尊重」しながら一方で「欲望を抑える」という、いわば「新自由主義」とも言えた。そして、以後の湛山の歩む道は、この考え方に貫かれていく。

「個人を尊重」しながら一方で「欲望を抑える」生き方というのは、私も共感します。

 

獅子風蓮