石橋湛山の政治思想に、私は賛同します。
湛山は日蓮宗の僧籍を持っていましたが、同じ日蓮仏法の信奉者として、そのリベラルな平和主義の背景に日蓮の教えが通底していたと思うと嬉しく思います。
公明党の議員も、おそらく政治思想的には共通点が多いと思うので、いっそのこと湛山議連に合流し、あらたな政治グループを作ったらいいのにと思ったりします。
湛山の人物に迫ってみたいと思います。
そこで、湛山の心の内面にまでつっこんだと思われるこの本を。
江宮隆之『政治的良心に従います__石橋湛山の生涯』(河出書房新社、1999.07)
□序 章
□第1章 オションボリ
□第2章 「ビー・ジェントルマン」
■第3章 プラグマティズム
□第4章 東洋経済新報
□第5章 小日本主義
□第6章 父と子
□第7章 政界
□第8章 悲劇の宰相
□終 章
□あとがき
第3章 プラグマティズム
(つづきです)
8月の終わりになって、湛山は結果を報告のために山梨に戻った。すると日謙は、
「受験失敗は残念だったが、それも人の運というもの。来年もう一度、受験するんだろう? 実は山梨普通学校で教師が不足している。もしよかったら、手伝ってくれないだろうか。こちらでも受験勉強は出来ると思うが」
そんなことを切り出した。
湛山は、壺の底のような甲府盆地が好きだった。底から眺める四方の山々の景色も気に入っていた。
すでに述べたように、山梨普通学校は湛山の父親・湛誓や日謙などが明治22年に甲府に設立した中学と同程度の私立学校であった。日蓮宗の寺院の子弟の教育を目的にしていたが、僧侶のタマゴだけでなく一般からの志望があれば受け入れていた。
ここで湛山は1、2年生の英語と博物を教えることになった。教壇に立ってからは、一時は3、4年生の日本歴史も教えることもあった。教える前に気がついたことがあった。
それは文部省で発行している教師用の参考書であった。
「なあんだ、甲府中学校の先生たちもこれを見て教えてくれたのか」
中学時代に教わったことが、すべて詳しく参考書には載っていたのだ。湛山は、おかしくて一人でくすくす笑ってしまった。
「これなら僕にも簡単だ」
だから湛山の教師ぶりは決して不自然ではなかった。ところが生徒のなかには新米の教師と思って質問攻めにする者が必ずいる。しかも湛山は美少年である。からかってみたくなる要素を持っていた。
「いいかい、同じ時計でも用途や形状によって英語も呼び方は違う。懐中時計はウオッチ。置時計はクロック。分かるね」
「先生、では、目覚まし時計は何と言うのですか?」
「……それは、だな。クロックに決まっているだろ」
湛山は、へどもどしたら教師は落第、と教えられていたから、本当のことは分からなくても知ったかぶって平然と答えた。
博物学の授業中であった。「つくし」について語っていると、
「先生。じゃあ、すぎな、というのは?」
と、とんでもない質問がきた。生徒のほうは、毎日道端や野原で、つくしの元になる「すぎな」の実物をいじって遊んでいるのである。湛山には分からない。そんな時には、
「はっきり言って、先生には分からない」
きっぱり答えると、生徒はそれで質問を引っ込めた。
湛山は、ほぼ同じくらいの年齢の生徒たちから「先生」と呼ばれるのに、照れ臭さと面映ゆさを感じたが、反面で「先生」と呼ばれることの喜びも覚えた。
甲府中学に通い始めた頃は日蓮宗の影響もあって、漠然と「宗教か教育関係の仕事が出来たら」
と考えていた。それが、大島正健と出会ってからは「大学で医学を学び、出来れば医師と宗教家を兼ねた仕事をしたい」ともっと具体的な仕事を思うようになっていた。
大島に触発されたためだが、それは「社会に役立つ仕事」であった。
東京で医学を学ぶためには、第一高等学校に入学しなければならない。だからこそ来年の入試を目指し、浪人生活を送っているのであった。
湛山の「先生」時代は、約10ヶ月で終わった。
(つづく)
【解説】
甲府中学に通い始めた頃は日蓮宗の影響もあって、漠然と「宗教か教育関係の仕事が出来たら」
と考えていた。それが、大島正健と出会ってからは「大学で医学を学び、出来れば医師と宗教家を兼ねた仕事をしたい」ともっと具体的な仕事を思うようになっていた。
大島に触発されたためだが、それは「社会に役立つ仕事」であった。
湛山が医師を志していたことを知り、なんだかうれしく感じました。
しかも「医師と宗教家を兼ねた仕事をしたい」とも考えていたと。
私も大学生になった最初のころは「妙法の医師」を目指すなんて、気恥ずかしいことを考えていたものです。
獅子風蓮