獅子風蓮のつぶやきブログ

日記風に、日々感じたこと、思ったことを不定期につぶやいていきます。

石橋湛山の生涯(その21)

2024-06-22 01:47:56 | 石橋湛山

石橋湛山の政治思想に、私は賛同します。
湛山は日蓮宗の僧籍を持っていましたが、同じ日蓮仏法の信奉者として、そのリベラルな平和主義の背景に日蓮の教えが通底していたと思うと嬉しく思います。
公明党の議員も、おそらく政治思想的には共通点が多いと思うので、いっそのこと湛山議連に合流し、あらたな政治グループを作ったらいいのにと思ったりします。

湛山の人物に迫ってみたいと思います。

そこで、湛山の心の内面にまでつっこんだと思われるこの本を。

江宮隆之『政治的良心に従います__石橋湛山の生涯』(河出書房新社、1999.07)

□序 章
□第1章 オションボリ
□第2章 「ビー・ジェントルマン」
■第3章 プラグマティズム
□第4章 東洋経済新報
□第5章 小日本主義
□第6章 父と子
□第7章 政界
□第8章 悲劇の宰相
□終 章
□あとがき

 


第3章 プラグマティズム

(つづきです)

湛山は日蓮宗の寄宿舎・茗荷学園を出て、本郷の西片町に住み、次いで下谷の谷中に移った。引っ越しはいつも、友人の家にある荷車を借りた。夜具と生活道具一式が入った行李とを積んで、荷車を引く。友人が後を押してくれる。
絣の着物と羽織、よれよれの袴に朴歯の下駄を履き、荷車を引く湛山の腰には手拭いとインキ壜がぶら下がっている。荷車を引く左手には石油ランプを持っている。
インキ壜は湛山ら学生には必需品であった。まだ万年筆も鉛筆もなかった頃である。インキとペンは学校に常に携帯して行った。
石油ランプは、明かりである。日本に電気が急速に普及していくのは、明治40年代以後である。湛山が早稲田に通った頃は、全国で36万個ほどしか電灯は取り付けられていなかった。
午後からの引っ越しは、夕暮れにかかった。蝙蝠が低く飛ぶ時間になると、街路の瓦斯灯に火が入る。
人夫が長い竿を持って瓦斯灯に点火するのである。湛山はその光景を眺めるのが好きだった。瓦斯がやがて青白い光を放ち、瓦斯灯はゆっくりと、見た目の暖かさを増す。瓦斯灯の周りがぼんやりと明るくなり、闇の訪れとともに周囲を照らすのである。
「僕は、瓦斯灯が夜になって周囲を明るくするのを見ていると、ほっとするんだ」
湛山は、明治39年(1906)に3年生になると同時に、今度は早稲田鶴巻町の早稲田館に下宿することになった。大学の近くに下宿を移して通学時間を短縮し、その分学問に集中しようと思ったからである。王堂から「デューイの孫弟子」を認可されたことでますます学問の深さに興味が湧いていた。遅蒔きながら湛山の意識の中に、何かのためにではなく、純粋に学問をやる面白さという意味が加わったのであった。
同じ年の夏、母親のきんが隠居して、自分自身が石橋家から相続してあった家督を湛山に相続させた。湛山は、これで父親の「杉田」姓でなく、一生母方の「石橋」姓を名乗っていくことになった。

湛山が早稲田で出会った教授はこのほかにも数多くいて、それぞれに湛山の人生に影響を与えているが、島村抱月もその一人であった。
抱月は坪内逍遥の勧めで早稲田の教壇に立ったが、明治35年に『新美辞学』という大著を刊行し、3年間のイギリス、ドイツ留学に発った。ヨーロッパで美学のほか、世紀末の芸術、文学、思想を広く吸収し、明治38年の秋、日露戦争の勝利に沸く日本に戻ってきた。

(つづく)


解説

湛山が早稲田で出会った教授はこのほかにも数多くいて、それぞれに湛山の人生に影響を与えているが、島村抱月もその一人であった。

湛山と島村抱月との出会いです。

 

 


獅子風蓮