獅子風蓮のつぶやきブログ

日記風に、日々感じたこと、思ったことを不定期につぶやいていきます。

石橋湛山の生涯(その11)

2024-06-06 01:48:33 | 石橋湛山

石橋湛山の政治思想に、私は賛同します。
湛山は日蓮宗の僧籍を持っていましたが、同じ日蓮仏法の信奉者として、そのリベラルな平和主義の背景に日蓮の教えが通底していたと思うと嬉しく思います。
公明党の議員も、おそらく政治思想的には共通点が多いと思うので、いっそのこと湛山議連に合流し、あらたな政治グループを作ったらいいのにと思ったりします。

湛山の人物に迫ってみたいと思います。

そこで、湛山の心の内面にまでつっこんだと思われるこの本を。

江宮隆之『政治的良心に従います__石橋湛山の生涯』(河出書房新社、1999.07)

□序 章
□第1章 オションボリ
■第2章 「ビー・ジェントルマン」
□第3章 プラグマティズム
□第4章 東洋経済新報
□第5章 小日本主義
□第6章 父と子
□第7章 政界
□第8章 悲劇の宰相
□終 章
□あとがき


第2章「ビー・ジェントルマン」

(つづきです)

湛山の『校友会雑誌』への投稿は、大島との交流の間も続いている。そのなかに明治34年12月発行の第14号に「湛山随筆」がある。〈ただ、秋の夜長の睡気覚しの一策として、思ひ当る事、筆にまかせて書きつけしもの、これが世に云ふ随筆といふものならむと思ひて〉と書いたものである。
さらに〈読むと読まぬとは諸君の勝手たるべし〉と続けて、前文の最後で〈湛山は僕の別名なり〉と、湛山について説明している。
だが、その内容はかなり手厳しい。後の『東洋経済新報』時代のジャーナリスト「湛山」の片鱗を見せているのだ。
その頃流行していた「投票」について〈上は国会議員から、下は村会議員、もつと下つて芸者の投票まで、競争、競争と騒ぎをる馬鹿さ加減〉と、美人投票や医者投票を揶揄したのに続いて、驚くような論調を展開する。
政治家・星亨(ほしとおる)の暗殺を〈世の為に実に良い教訓であつたと思ふ〉と、ずばり指摘しているのだ。星亨は江戸の生まれ。維新後、陸奥宗光の知遇を得て、イギリスに留学し法律学を学んだ。明治14年(1888)、自由党に入党。論客としても鳴らし、藩閥政治を批判した。衆議院議長や駐米公使などを歴任した後に憲政党領袖として手腕をふるい、立憲政友会創立に参画した。第四次伊藤博文内閣で郵政大臣となったものの、東京市会議員として汚職で辞職した。だが、その後も政友会の院内総務として辣腕をふるっていた。
その星が、この年の6月、伊庭想太郎という刺客に暗殺されたのであった。
湛山は随筆でこう記した。
〈僕は、星が殺されたからといつて驚きもせぬ、当然の事だと思ふ、また、死んだからとて、人の様に急に星を賞めもしない、死んだものは、死んだものだから、捨てて置くがよい〉、〈暗殺は法律で禁じてある、罪悪に相違ない、然し、暗殺も事によると必要が生ずる、現今の処では〉、〈今の法律は、愚人の法律で、利口な者の法律ではない、法律に縛られてゐる悪人は、まだ立ちのいい馬鹿だ、然し、中に性の悪い、利口な奴には、此法律は役に立たない〉、〈此の法律の網を免れてゐる極悪人が、世に多いとしたならば之を罰する方法は何か、ただ、此の時は社会の制裁と云ふより外は致し方あるまい〉、〈義人があつて自己の身命を犠牲にして、国の為、其賊を斃すと云ふ一方より外はない〉、〈これが即ち、暗殺の必要な所なのだ〉、〈議場で拳骨を振り回して、口ばかり達者な悪者共の胆を冷やさせるなどは、最も、痛快とする処だ〉、〈星が殺されたのは、世の為に実に良い教訓であつたと思ふ〉
恐ろしく過激な、しかし、本質を衝いた文章である。随筆というよりも、社会・政治評論の類に近い。
湛山が、後に『東洋経済新報』の記者時代に書いた大正11年(1922)2月11日の小評論「死もまた社会奉仕」に連なる思想の原点ともいえよう。これは明治の元勲であった山県有朋が85歳で死亡した際に、その長い間の権力掌握を批判し、弊害を指摘したうえで〈人は適当な時期に去り行くのも、またひとつの意義のある社会奉仕〉と大胆に言い切った評論である。

明治35年(1902)3月、省三は「石橋湛山」として山梨県立第一中学校を卒業した。同期生53人のうち成績は17番。5年級を7年かかって卒業したことになるが、湛山はこの時にまだ17歳である。
大島正健は大正3年(1914)まで、第一中学校に校長として留まることになる。
「石橋君、卒業祝いに私も言葉を贈ろう。とはいえ、もう言い古してしまった感はあるがね」
大島が卒業証書を持って校長室に挨拶に現われた湛山を、いつもとは違って応接用の椅子に座らせて、にこやかな笑顔を向けた。
「君が大望を持った青年であることは十分に分かった。僅か1年間の付き合いだったが、私には十年間にもまさる付き合いであったと思う」
「先生、僕も」
そう言おうとしたが、湛山は黙った。自分が話す時間は必要なかった。それよりももっとたくさんの言葉を、大島校長から貰っておきたいと願ったからである。
「私が君に贈ろうという言葉は、ビー・ジェントルマンだ。君子であれ、紳士であれ。前にはそう説明したが、あの言葉にはもうひとつ深い意味があるんだ。それはね、物事のすべては自分の良心に従って判断せよ、という意味合いなんだよ」
「自分の良心に従って判断せよ、ですか?」
「そう、物事の規準、行為の判断、そうしたものに法律や慣習がある。だが、例えば法律とは、最低の道徳なのだ。これを守らねば人間ではなくなる、そうした最低の線の上に法律はある。だから、いつか君が書いた湛山随筆の星亨暗殺への評論、あれは過激だが、相当の真実も含まれていると、私は見たんだ」
「はい……」
「法律とか、他人からの規制、古くからの慣習、そんなものによって規準や判断を強制されてはいけない。つまり、そこでビー・ジェントルマンが必要になるのだよ。君子であれとは、自分の良心に従って行動し、自分の良心に従って判断し、自分の良心に従って責任を取れ。そういうことだ」
「先生、ありがとうございます。ビー・ジェントルマン。この精神を石橋湛山、いつまでも忘れません。この精神でこれからを生きていきます」
「君が将来どのような道に進むのか、どのような生き方をするのか、私には予測もつかない。それどころか、君が理想とする仕事に就けるかどうかは、君にさえ分からないだろう。だが、根底にビー・ジェントルマンがあれば、どこで何をしようとも、君は立派に何らかの役目を果たせるはずだ。頑張りなさい」
大島の言葉は、すべてが温かく、湛山の心に沁み入って来た。
「先生、いつか先生がおっしゃられましたクラーク先生の孫弟子に、僕はなれたでしょうか」
「うん、立派にクラーク先生の孫弟子だよ。私が認めよう。それにね」
大島は言葉をいったん切った。それから、ゆっくりと、感慨をこめて言葉を探すように続けた。
「私は君と会えて、やっとクラーク先生の気持ちが分かったんだよ。今、私は札幌農学校を去るクラーク先生の気持ちでいる。多分、君の気持ちがあの時の私であろう、と」

湛山は、総理大臣になる直前の昭和31年(1956)10月、戦後の新制教育で甲府第一高等学校と名称の変わった母校の『同窓会だより』発刊にあたって、祝辞を寄せた。「クラーク博士の「教え」と題してこう書いている。
〈今でも残っているか、どうか知らないが、私はかつて甲府中学の求めに応じて、英語で額を書いたことがあった。その英語は Boys be Ambitious! というのであった。どうして、そんな風変わりの額を書く気になったかというに、この英語は私が中学校時代、校長の大島正健博士から初めて耳にし、深き感銘を受け、今日に至った言葉だからである。(中略)中学時代の思い出はかずかずある。だが、この中学で大島校長を通じクラーク博士を知り得たことにまさって忘れがたい思い出はないのである。(中略)幸いにして甲府第一高等学校には、以上のしだいでクラーク博士の教えの種子はおろされたのである。日本民族興隆のため、どうかこの種子が甲府一高において大いに育ち、やがてそれがまた全国にまきひろめられることを切に祈るのである〉
湛山の人生にとって、大島正健とウィリアム・クラークがどれほどの重みを持っているかを窺うことの出来る小文である。

湛山は「大望」を抱いて、次のステップに進む。が、そこでも大きな出会いにつながる失敗が湛山を待っていた。


解説

こうして省三は「石橋湛山」として山梨県立第一中学校を卒業しました。

 

獅子風蓮