
また堂衆の中に筒井の浄妙明秀は褐の直垂に黒革威の鎧着て五枚甲の緒を締め黒漆の太刀を帯き二十四差いたる黒幌の矢負ひ塗籠籐の弓に好む白柄の大長刀取り副へてこれもただ一人橋の上にぞ進んだる、大音声を揚げて、遠からん者は音にも聞け、近からん者は目にも見給へ、三井寺には隠れなし堂衆の中に筒井浄妙明秀とて一人当千の兵ぞや、我と思はん人々は寄り合へや見参せん
延暦寺と三井寺の争いは、非常にくだらない。同じ天台宗ではないか。光源氏が、かわいいなあれもこれもかわいいな、とか色道を驀進しているさなかに、お寺さんの方では激しい勢力争いが行われておったのである。いまでも大学間の争いなんかがそうだが、結局、大学の名前とかが重要であり、自分の仕事に集中できない本質的な×ちこぼれなどがくだらない争いを繰り返しており、いまでも自分の名前よりも何とか大学のなんとかだ、みたいなことが重要なのである。浄妙明秀も自分の名前よりも三井寺というのが重要であり、まずはそこから名乗るのである。で、このあと、多くの矢に打たれながら暴れる姿をみている野次馬は、三井寺がだんだんどうでもよくなり、「なかなかやるではないかっ」とみんなが思ってしまうのである。
結局、敵にむやみに感心するこの戦記物語の世界は、相手が敵であることにほとんど意味がないことの証明をしているようなものだ。
理由があるならちゃんと言えばいいのだ。第二次大戦の時もそうであった。アジアを救いたいんだったら、それだけを言うべきで、贅沢は敵だとか鬼畜米英だとか言うべきではない。第二次大戦の時なんかは、上のような「大音声」が通用しなくて、とにかく黙って特攻だ、みたいなことになっていたが、宇治川の野次馬とは違って米国の撮影隊しかその様子を見ていない。
これから嶽本のばら氏の『純潔』を読もうとしているのであるが、期待はやはり理由付けである。