
いよいよ恥づかしく、かの上の御ことなど思ふに、またたけきことなければ、限りなう泣く。宮も、なかなかにて、たはやすく逢ひ見ざらむことなどを思すに、泣きたまふ。
浮舟の部屋にカヲルくんの声をまねて闖入したニオウさんである。はやくこの犯罪人を縛せ。「結果的に親しくなった人」を作り続けている内閣など世のなかにはいろいろあるわけであるが、この二人も「結果的に仲良くなった」。で、中の君(お姉さん=匂宮の妻)にも悪いと泣く、宮もこんな関係はなかなか会いに来るわけにもいかぬといって泣く。
みゃーみゃー泣くなっ
太宰治は、映画をみにゆくと必ず泣いていたらしい。
私が映画館へ行く時は、よっぽど疲れている時である。心の弱っている時である。敗れてしまった時である。真っ暗いところに、こっそり坐って、誰にも顔を見られない。少し、ホッとするのである。そんな時だから、どんな映画でも、骨身にしみる。
日本の映画は、そんな敗者の心を目標にして作られているのではないかとさえ思われる。野望を捨てよ。小さい、つつましい家庭にこそ仕合せがありますよ。お金持ちには、お金持ちの暗い不幸があるのです。あきらめなさい。と教えている。世の敗者たるもの、この優しい慰めに接して、泣かじと欲するも得ざる也。いい事だか、悪い事だか、私にもわからない。
――「弱者の糧」
全く、敗者になると、良い事だか悪い事だかわからないとか言いたくなってしまうものである。「悪い」に決まっているじゃないか。わたくしも、確かにこういう複雑感情がなければ泣いたことはない。嘘泣きというのは、原理的なものである。
さっき、ルクレーテイウスの『ものの本質について』をめくっていたら、ケンタウリーなんていないに決まっているじゃないかという箇所が出てきて、そうだよね、と思った。馬が老いてしまう頃、我々は柔らかな髭が生えてくる。そんなもんがどうやって一緒になるのだ、というのだ。考えてみると、和魂洋才なんてのもケンタウリーの一種である。あることになっているが、みたことはない。源氏物語のなかで出てきた「大和魂」みたいなものも漢心から自らを分離してでてきたようにみえるが、だいたい分離なんか出来るわけがない。もともとくっついてないんだから。もしくっついているのを引き離そうとしたら、ものすごい痛みで死んでしまう。鷗外レベルの人間には痛みはないかもしれないが、――いや、彼なんて一番痛がっていると言えなくはないのだ。