★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

遅速こそありけれ

2019-09-16 15:09:56 | 文学


わごぜのそれほどまで思ひ給はんとは夢にも知らず。うき世の中のさがなれば、身の憂きとこそ思ひしに、ともすればわごぜの事のみ恨めしくて、今生も後生もなまじひにし損じたる心地にてありつるに、かやうに様を変へておはしつる上は、日ごろのとがは露塵ほども残らず。今は往生疑ひなし。


白拍子の祇王ははじめ清盛の寵愛をうけたが、あとから来た十六歳の仏御前に取って代わられて追放されてしまった。しかし仏御前も清盛に愛想尽かして祇王の元にやってきて、許してくれるなら二人で極楽往生しませう、「一つ蓮の身とならん」というのであった。『源氏物語』なら歌でも詠み交わしてしくしく泣いてしまうところであり、二人とも光源氏への思慕を少し残していそうなものであるが、ここでは「一緒に極楽往生だ」「そうだそうだ往生疑いなしだ」というノリであり、さすが武士のノリが相手の女性まで乗り移っているようである。源氏の世界が消極的に「死んだら悲しいよ」なら、平家は積極的に「死んだら極楽だ往生だ」という感じである。思うに、二つの物語の違い、貴族と武士の時代の違いはあっても、仏教との関係を含んだ本質的なところはそれほど変わってないのかもしれない。ただ、――現代でも、悲惨な事がありすぎると、ただの徴兵を投企とかいいだすバカもいるのである。それと同じである。

『平家物語』は、走馬燈のように人物が死んでゆくが、ここでもそうで、

遅速こそありけれ、みな往生の素懐を遂げけるとぞ聞こえし。されば、かの後白河の法皇の長講堂の過去帳にも、祇王、祇女、仏、とぢ等が尊霊と四人一所に入れられたり。ありがたかりし事どもなり。

ともう一丁上がりである。「遅速こそありけれ」とかいうけれども、全体として速い。往生というのは、源氏みたいにだらだらやるもんじゃなく、すぱっと成し遂げるものなのである。往生加速主義と呼んでおこう。

――私はその日その日の生活にも困っている。食うや食わずで昨日今日を送り迎えている。多分明日も――いや、死ぬるまではそうだろう。だが私は毎日毎夜句を作っている。飲み食いしないでも句を作ることは怠らない。いいかえると腹は空いていても句は出来るのである。水の流れるように句心は湧いて溢れるのだ。私にあっては生きるとは句作することである。句作即生活だ。
 私の念願は二つ。ただ二つある。ほんとうの自分の句を作りあげることがその一つ。そして他の一つはころり往生である。病んでも長く苦しまないで、あれこれと厄介をかけないで、めでたい死を遂げたいのである。――私は心臓麻痺か脳溢血で無造作に往生すると信じている。
 ――私はいつ死んでもよい。いつ死んでも悔いない心がまえを持ちつづけている。――残念なことにはそれに対する用意が整うていないけれど。――
 ――無能無才。小心にして放縦。怠慢にして正直。あらゆる矛盾を蔵している私は恥ずかしいけれど、こうなるより外なかったのであろう。
 意志の弱さ、貪の強さ――ああこれが私の致命傷だ!

――種田山頭火「述懐」


山頭火がこれを書いた頃、もう日中戦争は始まっているのであるし、「いつ死んでよい」とか言いながら、全く死ぬ気がないのが明らかである。考えてみると、彼の「矛盾」はいまならアスペルガーの認定を受けそうであるが、抵抗のためにはこういう死んだふりみたいなものも必要なのである。