★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

「わが身一つの亡くなりなむ」の原因

2019-09-12 23:00:48 | 文学


わが身一つの亡くなりなむのみこそめやすからめ。 昔は、懸想する人のありさまの、いづれとなきに思ひわづらひてだにこそ、身を投ぐるためしもありけれ。ながらへば、かならず憂きこと見えぬべき身の、亡くならむは、なにか惜しかるべき。

薫と匂宮との三角関係に陥り、死んでしまおうとする浮舟である。われわれは案外簡単に死を思ったりするものであるが、浮舟はあまりにあっさりと言い始めたので、語り手も自分で語っておいてびっくりしたのであろう。

児めきおほどかに、たをたをと見ゆれど、気高う世のありさまをも知る方すくなくて、思し立てたる人にしあれば、すこしおずかるべきことを、思ひ寄るなりけむかし。

子どもっぽく嫋やかであるが、高貴な社会のことも知らずに大きくなってしまったので、思い切ったことを考えてしまったであろう。と語り手は言う。しかし、浮舟の身になって考えてみれば、二人の男と三角関係になったのみならず、この二人は都の二大スターなのだ。田舎の女子中学生が、突然勝新太郎と若山富三郎に同時に告白されてみなさい。まずその場で卒倒であろう。いやこれは違うか、――『ゴッドファーザー』の頃のアル・パチーノとロバート・デニーロでもいい。どうも実感が湧かないので、――わたくしの場合は、広瀬すずと永野芽郁でもいいい。

いや、こうなるとむしろ三角関係を上手く使って人生を楽しもうという気になってしまったが、――薫と匂宮はスターというより人間を動かしてしまう、つまり権力を持っているのである。これがでかいとみた。こじれたら、権力に群がる人間から何を言われるかわからないのだ。だから、

ありながらもてそこなひ、人笑へなるさまにてさすらへむは、まさるもの思ひなるべし

と言っているのである。

陰口にしろ、褒められるにしろ、人間が誰かから思われるのは感覚で考えるよりも主体的なありように関わる。この前、小学校に行ったら、壁新聞に「好きな芸能人」とあって、小学校四年生が「広瀬すず」を一位にあげていた。すずさんは思春期の男子や青年たちのあこがれだけではなく、小学生にも人気があるのだ。そして、わたくしは、広瀬すずが小学生がみたときに「こそ」いい顔やキャラクターであることを考慮しなければ、広瀬すずを説明できないように思った。おそらく、彼女は小学生からも人気があることを知っている。そうすると、人間、小学生の「如く」少し「変形」するのである。浮舟も、二人の美男子から愛されて、自分が「変形」しているのを強烈に自覚しているに違いない。三角関係の「変形」は確かに複雑でつらい。しかもこれから、有象無象の他人の誹謗中傷の姿の「如く」「変形」することは確実である。これでは自分を保てない。

いじめなんかはそうで、いじめられている子どもなんかは、激しく自分の「変形」を感じるものである。「変形」した子どもは、自分をいじめた子どもに「成っ」てもいるのだ。自分であるとともに他人でもあるというジレンマを断ち切るための「死」は、「変形」の〈回避〉から導かれる可能性があるとおもうのである。大人になると、こんな単純なことさえ忘れる。

ただし、人間は「変形」に〈抗し〉て生きることが出来る。

結局すったもんだのあげく、浮舟さん、出家成功。めでたしめでたし。

源氏物語の結末があっけないという人もいるが、近代の「浮雲」なんかもっとあっけないからね。十分劇的な巻切れだ。「ユリシーズ」の猥雑な告白みたいな最後もいいが、人生それだけだといけないのだ。