★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

皆語らひ合はせけり

2019-09-03 23:39:00 | 文学


「思ひの外に心憂き御心かな。人もいかに思ひはべらむ」
と、御文にて聞こえたまへり。


恋に目覚めた体臭男・薫さんは、大君に夢中であるが、彼女は「父上が亡くなって体調悪いんで」みたいな感じで断り続ける。体臭さんも「人(女房たち)もどう思うでしょう」とか、同調圧力でなんとかしようとする。これだから、遅咲きの思春期野郎は困るのだ。

「今はとて 脱ぎはべりしほどの心惑ひに、なかなか沈みはべりてなむ、え聞こえぬ」
とあり。


そうだそうだ。お父上がなくなって喪服を脱いだら却って元気が沈んで居るのだよ、こんちくしょう

怨みわびて、例の人召して、よろづにのたまふ。世に知らぬ心細さの慰めには、この君をのみ頼みきこえたる人びとなれば、 思ひにかなひたまひて、世の常の住み処に移ろひなどしたまはむを、いとめでたかるべきことに言ひ合はせて、「ただ入れたてまつらむ」と、皆語らひ合はせけり。

不満たらたらの体さんは、老女房などと作戦会議。なにしろ、八の宮が死んで一気に後ろ盾消滅の彼女らである。いまでも金を持っている親戚に怒濤のようにぶら下がっている人たちは多いが、そんな感じなのであろうか。こういう人間たちは手段を選ばない集團と化す。薫と結婚して貰って、「世間並みの住まい」に移りたいなどと思うのである。もう「ただ入れたてまつらむ」作戦に出ようとしている。いや、作戦も何もない、体臭どのを大君の閨房に放り込み奉るだけである。

『三里塚 辺田』という作品の中で、学校を行かずに嫁にきて、博打に夢中の男たちに苦労させられた80代の老婆が人生を延々語る場面がある。この三里塚シリーズは、地元の女性たちの語りと、監督をはじめとする若者の現代化した語りが鋭く対立している。後者は、七〇年代初めとはいえ、もうわれわれのような、ヒューマニスティックだが観念的なある種いい子ぶった言語になってしまっている。これに対して、謳うように語る老婆の言葉は強い訛りにもかかわらずだいたい分かる。ちなみに地元の男たちの訛りはよくわからない。なんとなく彼等は理屈っぽいのである。

たぶん、老女房やおつきの女房がごにょごにょ喋っていた世界は、源氏物語の本文には現れていないのかもしれない。宮中の女たちだから大した違いはないかもしれないが、仏にすがるだかなんだかわからんがお高くとまっている父親と娘たちを、「しゃあんめよ、おまんまくわねばねしよう、のう」みたいな感じで文句を言い続けていたのかもしれない。こういった女性たちがういざ戦いの前線では突然明瞭に現代語で「人間の顔を被った鬼だな、おめえらは」というと迫力があった。

わたくしはなんとなく、ネット世界で、そういった感性的な燃えあがるガソリンみたいな言語が涵養されてくることを願っていたのであるが、いまのところ、小学生みたいな理屈っぽさが燃えあがっているだけである。