
また見譲る人もなく、心細げなる御ありさまどもを、うち捨ててむがいみじきこと。されども、さばかりのことに妨げられて、 長き夜の闇にさへ惑はむが益なさを。
八の宮(源氏の異母兄弟)は急死するときに、いろいろと二人の娘に説教している。二人を置いていくのはとても心配であるが、そんなことに妨げられて、無明長夜の闇に迷うのはいけない、と言っている。
結局、あまりに親子の絆がありすぎると、なかなか成仏できなかったりするのではあるまいか。そのせいか、八の宮はぱっと居なくなってしまう。源氏や紫の上がどたんばたんしていたのとは雲泥の差である。がっ、世の中いいとこ取りは出来ないのは常で、そのかわりに薫と匂宮の二大巨悪をますます引き寄せてしまうのであった。
大慈悲の海の一滴の水が、私共のこの胸に留まりまするならば、たとえ私のこの肉の眼から一切の光が奪われまして、この世の空にかかる月は姿を見せずとも、本有心蓮の月の光というものは、ゆたかに私共の心のうちに恵まれるものに相違ございませんが、何を申すも無明長夜の間にさまようて、他生曠劫の波に流転する捨小舟にひとしき身でございます、たどり来ったところも無明の闇、行き行かんとするところも無明の闇……ああ、どなたが私をこの長夜の眠りから驚かして下さいます
――中里介山「大菩薩峠――無明の巻」
確かに、無明長夜の闇の影響は、こういう盲目となった孤独な殺人者だけに及ぶのではなかった。プレイボーイたちも、「他生曠劫の波に流転する捨小舟」に出会う。最後に恋を拒絶する浮舟をだしてくるところが源氏物語がさすがだと思うところである。恋よりも長いものを肯定することが大事である。
それに比べると、今日話題になっていた小学館の雑誌はなんであろうか。「ほにゃららはいらない」という特集も調子に乗りすぎであるが、いつもの「死ぬまで***」が酷い。いいかげんそういう事以外に価値を置かないから、長い歴史を軽蔑することになるのである。