★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

光を見たまふ

2019-09-05 23:52:19 | 文学


前回の記事の太陽で面白かったのは、小型トラックを運転していたおじいさんが、車から降りて、一分間ぐらいこの太陽に手を合わせていたことであった。太陽を拝む人をわたくしは初めて見た。わたくしは、くしゃみが出た。

薮し分かねば、春の光を見たまふにつけても、「いかでかくながらへにける月日ならむ」と、夢のやうにのみおぼえたまふ。

冒頭部は古今集の「日の光薮し分かねば石上古りにし里に花も咲きけれ」をふまえているので、よけい心内語が暗く感じられるのだが、もともと「藪」を本当にわけ隔てなく日光が照らすわけはない。藪は藪である。伊藤左千夫の所謂

日のめぐりいくたび春は返るともいにしへ人に又も逢はめやも

はもっと観念的だが、中の宮は大君を太陽の見ただけで大君を思い出してしまう状態で、――ここでは太陽が分かりやすく選ばれているのだが、実際は、何を見ても大君のことを思い出すという感じである。姉とは和歌などで遊びながら過ごした仲であった。こういう場合は相手が半身だったことの意味は重くなる。

行き交ふ時々にしたがひ、花鳥の色をも音をも、同じ心に起き臥し見つつ、はかなきことをも、本末をとりて言ひ交はし、心細き世の憂さもつらさも、うち語らひ合はせきこえしにこそ、慰む方もありしか、をかしきこと、あはれなるふしをも、聞き知る人もなきままに、よろづかきくらし、心一つをくだきて

とはいえ、こういう関係は言うまでもなく危険でもある。我々を人間にするのは、話が通じない人間のなかで生きることを覚えるときである。自分の言葉を支えるものが、自分でもなく社会でもなく倫理みたいなものだということが自覚されるからである。テレビで、「マザコン」でない「母ラブ男子」というのが紹介されていたが、これは危険だと思う。学生を見ていても、親との関係のコンプレックスが倫理的感覚の発達を遅らせている気がする。極論を言えば、親との関係は人間関係とは言えない、だから倫理は結局育たない。最悪の場合、親からの自立に倫理の代わりに宗教とかイデオロギーを使う奴とかがでてくる(大江健三郎参照)。わたくしは、日本社会が一二歳程度をうろうろしていたことと、徴兵やなにやらによって、いい歳こいた青年たちが親との関係性を再び強制されたことと何か関係があるように思えてならないのである。一日中、親が子を心配し子が親のことを気にかけるのは人間を否定することである。そんな場合に、言ってはいけない言葉を社会や会社で言うような人間が出てくる。例の「**は要らない」などがその例だ。

中の君は、そんなことを葛藤する暇もなく、匂宮に連れ去られてしまったのでいいのかもしれないのが、如何せん、もう歳をとりすぎている。