今これらの莫大の御恩を思し召し忘れさせ給ひて、濫りがはしく法皇を傾け参らさせ給はんこと、天照大神、正八幡宮の神慮にも背かせ給ひ候ひなんず。それ日本は神国なり。神は非礼を請け給ふべからずしかれば君の思し召し立たせ給ふところ、道理なかばなきにあらず。
『平家物語』のなかでも「いいひと」みたいな平重盛である。怒ったら人間ではなくなる父清盛を、アマテラスと八幡大菩薩という二大神仏、しかのみならず論語のせりふ(神は非礼を~)まで持ち出していさめようとしている。でも、もし神がそもそも非礼なことを許して居らず、法皇の叛乱もそれなりの神意であるとすると、清盛の横暴もそれなりの神意であることになるのではなかろうか。このあと、重盛は聖徳太子(十七条の憲法)まで持ち出してくる。
「人皆心あり。心各々の執あり。彼を是し、我を非し、我を是し、彼を非す。是非の理、誰かよく定むべき。相ともに賢愚なり。環のごとくして端なし。ここをもつて、たとひ人怒ると言ふとも、かへつて我が咎を恐れよ」
こうして清盛が自ら正しいと思っている事態を相対化してしまう。自分が環のように繋がっている賢愚のどこに位置しているか分からなくさせるのであった。で、
しかれども当家の運命今だ尽きざるによつて、御謀反すでに顕れさせ給ひ候ひぬ。
神意は平氏を正しいと思っているのではなく、ぎりぎりまだ命運がつきていない状態である、と解して、清盛を反省させようとする。
神意や善悪を許される幅のあるものと解しているところが、逆に法皇の謀反を許容する理由になるし、清盛の横暴も拘束する理由にもなるわけである。確かに、我々は案外、いまでも「ここまでやってもいいかも」みたいな自由の感じ方をする傾向にあるのではないか。これでは、善悪を真剣に考えようとすることはなくなる。
教祖のゴセンタクほど神秘的ではないが、うまいことは確かである。伊東市ではロクな牛肉が手に入らぬから、たしかに松阪牛にはタンノウした。それに特別手がけて肥育した牛肉は消化がよいのか、もたれなかった。牛の飲んだビールやサイダーが私の胃袋を愛撫してくれるのかも知れない。まことに伊勢は神国である。
――坂口安吾「安吾・伊勢神宮にゆく」
戦後の「自由」の空気の中にいる安吾は、こんな感じである。安吾は、神意(天皇制)に頼らず人間事態の堕落が可能かと考えていたが、その堕落というのも、何か落ちて行ける長さ、範疇というものが想定されている気がする。巨大な破壊が終わり、堕落はその破壊までいかないような人間的な範疇が前提されているような――。しかし、巨大な破壊も人間の責任の範囲内なのだ。日本の神は許しても、本当の神は清盛も無論、法皇も許してはいないのである。我々は全員徐々に地獄に向かって行進しているだけだ。善悪が輪になっているという考えも甘い。全員我々は悪人である。そして罰を受けるべきなのは、システム上力を行使していることになっている者である。