★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

神意と善悪の範疇

2019-09-19 23:06:56 | 文学


今これらの莫大の御恩を思し召し忘れさせ給ひて、濫りがはしく法皇を傾け参らさせ給はんこと、天照大神、正八幡宮の神慮にも背かせ給ひ候ひなんず。それ日本は神国なり。神は非礼を請け給ふべからずしかれば君の思し召し立たせ給ふところ、道理なかばなきにあらず。

『平家物語』のなかでも「いいひと」みたいな平重盛である。怒ったら人間ではなくなる父清盛を、アマテラスと八幡大菩薩という二大神仏、しかのみならず論語のせりふ(神は非礼を~)まで持ち出していさめようとしている。でも、もし神がそもそも非礼なことを許して居らず、法皇の叛乱もそれなりの神意であるとすると、清盛の横暴もそれなりの神意であることになるのではなかろうか。このあと、重盛は聖徳太子(十七条の憲法)まで持ち出してくる。

「人皆心あり。心各々の執あり。彼を是し、我を非し、我を是し、彼を非す。是非の理、誰かよく定むべき。相ともに賢愚なり。環のごとくして端なし。ここをもつて、たとひ人怒ると言ふとも、かへつて我が咎を恐れよ」


こうして清盛が自ら正しいと思っている事態を相対化してしまう。自分が環のように繋がっている賢愚のどこに位置しているか分からなくさせるのであった。で、

しかれども当家の運命今だ尽きざるによつて、御謀反すでに顕れさせ給ひ候ひぬ。

神意は平氏を正しいと思っているのではなく、ぎりぎりまだ命運がつきていない状態である、と解して、清盛を反省させようとする。

神意や善悪を許される幅のあるものと解しているところが、逆に法皇の謀反を許容する理由になるし、清盛の横暴も拘束する理由にもなるわけである。確かに、我々は案外、いまでも「ここまでやってもいいかも」みたいな自由の感じ方をする傾向にあるのではないか。これでは、善悪を真剣に考えようとすることはなくなる。

教祖のゴセンタクほど神秘的ではないが、うまいことは確かである。伊東市ではロクな牛肉が手に入らぬから、たしかに松阪牛にはタンノウした。それに特別手がけて肥育した牛肉は消化がよいのか、もたれなかった。牛の飲んだビールやサイダーが私の胃袋を愛撫してくれるのかも知れない。まことに伊勢は神国である。

――坂口安吾「安吾・伊勢神宮にゆく」


戦後の「自由」の空気の中にいる安吾は、こんな感じである。安吾は、神意(天皇制)に頼らず人間事態の堕落が可能かと考えていたが、その堕落というのも、何か落ちて行ける長さ、範疇というものが想定されている気がする。巨大な破壊が終わり、堕落はその破壊までいかないような人間的な範疇が前提されているような――。しかし、巨大な破壊も人間の責任の範囲内なのだ。日本の神は許しても、本当の神は清盛も無論、法皇も許してはいないのである。我々は全員徐々に地獄に向かって行進しているだけだ。善悪が輪になっているという考えも甘い。全員我々は悪人である。そして罰を受けるべきなのは、システム上力を行使していることになっている者である。

西村神社を訪ねる(香川の神社201)

2019-09-19 17:40:35 | 神社仏閣


西村神社(西村荒神社)は木太町。



入り口に、「皇紀二千六百年記念」の碑。左側の柱をみると、下部が埋もれているが「西村婦人会」か。昭和一五年というのは、隣組強化法とかが出来た年であった。占領軍によって戦後二年後ぐらいに隣組は禁止されているようだ。我が国ではいったん石を名前と共に周りに並べた磁力を振り払うことが出来ないのが神社である。そんな神社に隣組や婦人会が石を名前を彫って突き立てる。だからか分からんが今にいたるまで隣組は存続しているし、政治的機能もないとは言えない。香川でも長宗我部とか米軍とかに神社を焼かれたが、復活しているものがかなり多い。社殿は焼かれても神社とは「石」なのである。焼けない石……



石が緑に囲まれている風景が我々の脳裏に染みついているせいでもあろうか。草葉の陰には天皇がいる、という感じである。ジブリ映画なんてとてもその意味じゃ頑固に保守的ですよね。トトロというのは天皇ですよ、一人の。旧社会党の仲良し主義とは全く別のものである。