★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

ひとへに風の前のゴミクズに……

2019-09-13 23:07:59 | 文学


祇園精舍の鐘の声、諸行無常の響きあり。娑羅双樹の花の色、 盛者必衰の理をあらはす。奢れる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。猛き者もつひにはほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。

美文として何の疑問も持ってこなかったが、『源氏物語』の冒頭部は、かなりの名文にもかかわらず非常に説明的であるので、意味が分かってしまえばそれまでなのに対し、『平家物語』のそれは最初からかなり観念的でよくわからない。

祇園精舎の鐘の声は、何故諸行無常の響きまでしまうのであろうか。ここで聞き手は、仏教の教えそのものよりも、鐘の音を諸行無常の響きとしてみなすような姿勢、つまり鎮魂の姿勢を半ば強制されている。しかもその鎮魂は、その鐘を「声」のように、釈迦や死者の声の呼びかけにこたえるようなものであるから、――そんな響きはねえよと半畳をいれるには勇気がいる。確かに、鐘の音はだんだんと減衰し周りの空気に紛れて消えてゆくので、聞き手は、この空気について果てしない気分に襲われる。それは諸行無常の観念というより、そういう空気の気分みたいなものだ。むしろ、それが「諸行無常」であるというのは、その次の沙羅双樹の花の色が、盛者必衰の理をあらわしているというせりふで明快になると言ってよいと思う。これは釈迦が死んだときに沙羅双樹の花が白く褪せたという意味が動かない挿話の紹介であるから、祇園精舎の鐘の声も、同じように観念的な真理の現れだと見なされるのである。盛者必衰というのが、釈迦に即した表現なのかは知らない、ちょっと俗っぽく固い気がする。そう思っていると、次の奢れる者も久しからず、とでてきて、盛者必衰の意味を限定してゆく。

というかんじで、思い切った概念的、比喩的説明を、後ろから限定し補強しながらしながら進んでゆく文章のようだ。奢れる人が久しくないのはだいたい観念的にはわかるのであるが、それが「ただ」、「春の夜の夢」のようだというと具体的な気分が定まるし、まるで、先の諸行無常の位相に奢れる人が逝ってしまったような気がする。猛き者が滅びるのも、「ひとへに」風に吹き飛ばされるようだ、というのは、彼等が鐘の声と同じような世界に「絶対に」飛んでいってしまったはずだ、というわけであろう。

奢れる者を夢に追いやり、猛き者を塵にして吹き飛ばす、この語り手の思考には一種の「暴力」が存在する。上の観念的なものから具体的なイメージへの変換は一種の暴力であるから、語り手が奢り高ぶった猛々しい暴力に対して別種の暴力で対抗しているのは明らかではなかろうか。

塩野七生が、『ローマ人の物語』の最初に、周りの民族よりさまざまな面で劣るローマがなぜ一大帝国を築き滅びたのか、「解答を、急ぎたくない」と言っていた。それに対して、『平家物語』ははじめから結論を出している。それも仏教の権威を借りて。塩野氏にはローマに対して怨恨がないが、『平家物語』の作者にはたぶんある。本当は、平家以外に対してもっとあるのであろう。

わたくしが好きなのは、「ついにはほろびぬ」のところが、他の箇所より息が長く続く高揚感があるように思えるからである。『平家物語』の語り手も、政権の崩壊を夢に見たりその後の混乱に恐怖したりした口であろう。