
大納言、気色変わって、さっと立たれけるが、御前に立てられたりける瓶子を、狩衣の袖にかけて引き倒されたりけるを、法皇叡覧あって、
「あれはいかに」
と仰せければ、大納言立ち帰って、
「平氏倒れ候ひぬ」
とぞ申されける。法皇もゑつぼに入らせおはしまし、
「者ども、参って猿楽仕れ」
と仰せければ、平判官康頼つと参つて、
「ああ余りに平氏の多う候ふに、もて酔ひて候ふ」
と申す。俊寛僧都、
「さてそれをば如何仕るべきやらん」
西光法師、
「ただ、首を取るにはしかじ」
とて、瓶子の首を取ってぞ入りにける。法印あまりのあさましさに、つやつや物も申されず。
鹿ノ谷の陰謀会議での一挿話で、平家打倒の連中が瓶子と平家の洒落で盛り上がっているのを、事態を重くみていた浄憲法印がこりゃあかんわと思ったという。それはそうなのであろうが、別にいいじゃないか。勝てば(負けたけど)。
最近でも会議でくだらない洒落など言うと「真剣でない」とかいわれかねない。確かに浄憲法印みたいな人は真剣に発言する人であったりするのであるが、実際にマトモかというと分からない。実際問題、洒落も分からないやつが誠実な仕事をするわけがない。以前からずっと気になっているのが、なんちゃって改革派も真剣な批判派もおそろしくアイロニーを解さないということである。アイロニーかユーモアかという論争があったが、だいたい正義の味方はユーモアがすごいとか言っていた。しかし、本人はだいたいアイロニーが分からない状態でユーモアが良いとか言うので、結局は「学生ファースト」みたいなニコニコ路線へ転落していった。ユーモアだってアイロニーを潜っていなければならないのではないか。
私はまったく、粉砕された気持であった。私にも笹川の活きた生活ということの意味が、やや解りかけた気がする。とにかく彼は、つねに緊張した活きた気持に活きるということの歓びを知ってる人間だ。そしてそのために、あるいはある場合には多少のやりすぎがあるかもしれない。しかしそれでもまだ自分のような生きながらの亡者と較べて、どんなに立派で幸福な生活であるか!
――葛西善蔵「遁走」
「粉砕された気持」が重要なのだ。わたくしの貧しい葛西善蔵の小説の読書によれば、葛西はその「粉砕」のいちいちを分析しきれなかったところがある気がするのである。いまだって、すぐその粉砕されたなにかを「笑顔」とかで埋めようとする。最悪である。