とっても不思議な話だと思う話のひとつに、「空入水したる僧のこと」(『宇治拾遺物語』)がある。ある聖が入水往生するというので、人々が見物している。この聖、ざぶんと入水したが足を綱に引っかけたりしてもごもごしてなかなか死んだ様子がない。水の中でよく見ようとした人につかまり
広大の御恩蒙り候ひぬ。この御恩は極楽にて申し候はん
と言って走り出したので、見物人はこの聖に向かって雨あられと投石するのであった。
どうもこの聖は「偽」らしいぞ、とも思えるし、初めは本当にやる気だったとも思える。上のせりふだって、とっさに出てきたものかもしれないし、意図的だったのかもしれない。最後に、この聖が「前の入水の上人」と自称していたという挿話が書かれているが、これも、ここまで思い上がったおっちょこちょいとも思えるし、まあ、図太い面白い人だったとも思える。投石してた見物人の気持ちも分かるから、彼らを責める気にもなれない。面白いと思うのは、こんなに現代でもある種のリアリズムを感じさせる話が書かれた時代に、そもそも仏教はどんな感じで生きていたのかということだ。
最近は、思想と現実との関係をあまりにも簡単に納得しがちな人たちが多いような気がするが、仏教にしてもマルクス主義にしても、洗脳とか支配的だったみたいな形容に頼らない場合には、描写するのはなかなか難しいものだと思う、今日この頃である。