★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

子子子子子子子子子子子子

2018-09-04 23:14:52 | 文学


今日は台風でえらいことになっていた。年配の方から、室戸台風や伊勢湾台風のときのはなしを聞いたことはある。小屋が飛んだとか、天井が天高く舞い上がったとか、牛や豚が降ってきたとか、特撮映画かピンクフロイドかっ、みたいなことを聞いていたのだが、今日は、あちこちで近いことが起こったようである。ついに世も末である。

「小野篁廣才の事」(『宇治拾遺物語』)は、嵯峨天皇と小野篁の対決である。「無悪善」と書いてある札を嵯峨天皇が「読んでみろ」といったのだが、「あれなんで読めません」とか渋っていたのだが、それでも「ただ申せ」といわれたので、

さがなくて善からん、と申して候ふぞ、されば君を呪ひ参らせて候ふなり

ただ読めといったのに、誰が説明しろといったよ、という感じである。で嵯峨天皇は、「子子子子子子子子子子子子」を何と読む?と、才気しかとりえがないような篁に向かってケンカを売るのであった。結末は、ご存じの通りで、「ねこのこのこねこ、ししのこのこじし」と即答した篁に向かって帝は微笑んだのだった。

しかし、そうだとしたら、「子子子子子子子子子子子子」は、「しねしねしねしねしねしね」とも読める。大人の世界には死はどこにでもあり、小野篁は子どもの世界に希望を託したのであろう。人間以外の