★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

無理に平成を終わらそうとするからこのていたらくだと誰かが言い始める五秒前

2018-09-06 19:26:02 | 文学


目をつけて見れば、この女をまもり上げて、この蛇は居たり

とは、「石橋下蛇事」(『宇治拾遺物語』)にあるせりふで、「蜘蛛の糸」のカンダタが地獄に逆戻りした理由がよく分かる。やっぱり、このヘビのように、少しのチャンスをとらえて可愛く行動すべきだ。

この蛇さんは、たぶん嫉妬の罪かなんかで蛇に転生しており、橋の下の石の下で唸っていた。でも、ある宮仕えの女がこの石を避けて歩いてくれたので救われた。彼女について行き、お経を聴くことができたのである。

考えてみると、わたくしは昔から、カンダタが虫を助けたことがあるからと言ってお釈迦さんがカンダタを助けたのを、アイロニカルな野郎だと思って軽蔑していたが、人間、年を重ねてくると、たいした悪行も積んでいないのにも関わらず、「あのとき良いことしちゃった」みたいな記憶が案外人生の支えになっていることがある。最近は、宿題忘れたとか遅刻しただけで、逆に褒められたりしながらじくじくと批判されたりするので、良いことは悪であり、悪であって良いことだ、みたいなロートレアモン伯爵の如きことになってしまって、いつまでたっても、人生は灰色のグラデーションである。「あのとき良いことしちゃった」は、どんなに小さいことでも、記憶のなかで燦然と輝く必要がある。だからわれわれは少しは良いことすべきなのであった。

蛇から感謝された宮仕えの女は、いい男と結婚できたらしい。最後が、あまりにも欲望丸出しの結末になっているような気がしないでもないが、――だから、説話者としては、「せめて蛇ぐらいは救いましょう」みたいな道徳を説きたかったのであろう。蛇が可愛く描かれているのは、女の子をクマさんの人形で釣っているようなものだ。動物なんかでイメージが糊塗されないと、我々は案外、優しくもなれないのである。

大水、大風、大地震、――大変なかんじになってきちゃったね……