★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

高嶺的・猟奇的

2018-09-15 19:19:16 | 映画


先週はちょっと寝床から起き上がれない状態だったのでテレビなぞを見てしまったのであるが、――石原さとみ主演の「高嶺の花」というドラマがネットでさんざ悪口を言われているようだったのでかわいそうで録画を一気にみてみた。面白かった。

石原さとみは華道の天才だが、「もう一人の自分」とやらが見えなくなってスランプである。どうやらその「もう一人」とは、それまで華道をやっていた人格らしいのだが、婚約者に結婚式をドタキャンされたこともあり、彼女はドツボにはまっていた。とはいえ、実はそれは家元(父)が仕組んだ罠だったのである。その月島流という流派は、「たゆたう光と影」を目指すもので、光と影という分裂をかかえる者のみが成し遂げられる芸術なのであった。――ということになっており、石原さとみも、そこらの自転車屋のにいちゃんをもてあそぶ(自分がやられてた、結婚式ドタキャンをする)ことによって、罪の意識を獲得して、といった行動でその光と影を獲得しようとするのであった。で、才能はいまいちの妹や、京都の有名な流派の家元の愛人の子どもなどをまきこんでなんやかんやと騒動がある(めんどくさいので詳細は省く)。

で、結局、石原さとみの葛藤の原因は、上の無理のある「混沌作り」にくわえて、本当の自分が隠蔽されていたからであった。実は、彼女は家元の娘じゃなくて、母親がおつきの運転手と浮気したときの子どもだったのである。しかも、運転手は家元の指示でそうしてた。がっ、途中で本気で惚れてもいた。というわけで、最初は人為的につくられた恋であっても、途中で本気になってしまった恋(つまり父親と母親の恋=自分)を全面肯定して、――自転車屋のにいちゃんと結婚するのであった。本当の彼女は、才能的にも、母親系のもので、「たゆたう光と影」ではなく「私はお花」という、暗喩ではなく直喩の――テーマを得意とするものであって、そんな感じで作ったら、京都の有名な流派の若き家元も仰天するほどのできばえ。彼女は月島流を離脱して独立し、そのまま、ドラマはハッピーエンドに雪崩れ込む。

一応、芸術家石原さとみを中心に物語をおおざっぱにいうとこんなかんじであるが、その他、引きこもり+ドメスティックバイオレンスの中学生が、自転車屋のにいちゃんからラインでアドバイスを受けながら自転車で旅に出て、優しくなって帰ってくるというサブストーリーがあったりと、そもそも、自転車屋のにいちゃんもほぼ主人公の扱いなのである。

石原さとみも最後に言っていたように、自分の流派を立ち上げる茨の道であっても、支えになる人がいれば……、みたいな気持ちが、芸術家の物語と自転車のにいちゃんの存在意義を統一する。

たぶん、このドラマの根本的な不評の原因は、自転車のにいちゃんが「高嶺の花」をひたすら支えているばかりだからである。つまり、この話はラブストーリーではなくて、星飛雄馬とお姉さんのお話であって、しかも男女の関係は逆転している。自転車屋さんのにいちゃんみたいな存在がありうるのか、我々は確信を持てない。ドラマの中でもなぜそうありうるのか説明はなかった。

あと、暗喩と直喩のどっちが過激かという議論があるように、「私はお花」がすばらしく思えるのは一瞬だけであり、これは、「私は月島流」と同じことになる可能性はあるし、「私はキリスト」みたいなニーチェ的黄昏に突入することだってある。石原さとみを待っているのは、これまでのような鬱ではなく、本物の発狂である。わたくしは、本当はいまわれわれの直面しているのはこういう発狂であり、カウンセラーみたいな自転車屋さんの存在ではどうにもならないと思っている。しかも、カウンセラー役をやらされている人間が、もはやその役に疲弊しまくってしまったというのが現実である。

昨日、「猟奇的な彼女」が深夜やってたみたいだけど、わたくしはやっぱりこっちの方が好きだ。この映画も、恋人との強制的な別れ(死別)を経験した女の子が、作為的な恋愛を自分に課しているうちに、だんだんと回復してゆく話である。しかし、これが病を感じさせないのは、主人公の女の子が電車の中でゲロを吐くところから始まっているからである。で、観る者は、ゲロを吐く女に徐々に惚れていく過程を経る。しかし、石原さとみは最初から最後までとても美しく撮られているので、観る者に心理的変化を与えていないのであった。

力石地蔵を訪ねる(香川の地蔵36)

2018-09-15 15:53:59 | 神社仏閣


仏生山、高橋商会の前におります「力石地蔵」。これはリキイシではなく、チカライシと読むらしいです。

http://busshozan-community.info/busshozan-map/jizou/6chikaraishi.html

「仏生山みんなの地図」によると、「力試しの石にされていたが、「罰が当たっては」と丁寧にまつられた。」らしいのです。もう遅いような気がしますが、だいたい人はあとからになっていろいろと気づくものであります。しかも、上のサイトの写真とは場所が違います。また移動したらしいですね……。もはや「運試し」になってきている気がします。