★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

社会主義リアリズム?

2018-09-05 23:01:55 | 音楽
戦前の文学で、私小説とかリアリズムがなんだかよく分からんが乗り越えられるべき何かとして符丁になっていたのは、よく知られているが、――そういう言説自体が言い訳のようなものであった。先生に強制された「反省文」みたいなところがある。問題は、林達夫の「作庭記」とか「デカルトのポリティーク」みたいなある種学問に支えられた戦略をどうとるかであるが、――批評家はともかく、小説家や詩人達は作品の輝きを取り戻せれば何でもよいところがあるように思われる。どうも、戦時下の文学者達の作品をみているとそれを転向とか通俗化として済まされない気がする。われわれが想像しているより、国民詩人みたいなものに成りたがっていた可能性もあるし……



考えてみると、音楽も同じかもしれないかもしれないと思って、上のクニッペルなんてのを聴いたみた。ショスタコービチより少し年上の作曲家で、第1楽章の第二主題が、例の「ポーリシュカ・ポーレ」である。交響曲の第二主題が流行歌になるなんて、さすがソヴィエトである。――ていうか、普通に「ポーリュシュカ・ポーレ」は良い曲だし……。ジダーノフ批判で有名なフレンニコフの交響曲なんかも、彼がアメリカ人であったなら、スウェアリンジェンとかになっていたのではと疑われる。――というのは冗談だとしても、やはりこれらにくらべてショスタコーヴィチは暗くて洗練されているわな、と思わざるを得ない。オーケストレーション一つとってみても、ショスタコーヴィチは非常におしゃれな立体性がある。ショスタコーヴィチをブーレーズとかドビュッシーとかと比べるのはよくない。彼のまわりには、こういうプロの作曲者が創った、『大衆的』な音楽があったので、それとの差異化がさしあたり必要だったのだろうとおもう。

面白いと思うのは、ソ連の作曲家は、たぶん国策としても民謡をとりいれることを要請されているのだと思うが、それぞれの地域の民謡が交響曲の中に入り込んでいて面白い。様々な伊福部昭が沢山いる状態だったのだ。それで、久しぶりにガジエフの交響曲第4番「レーニンに捧ぐ」を聴いてみた。大学生の時に、六本木のレコード屋で買ってきて、すごいショスタコのぱくりだらけだと喜んでいたのだが、今聴いてみると、彼の故郷のアゼルバイジャン風なものとショスタコービチ風のものが接ぎ木されていて、これはこれでソ連という国がどういうもんだったかを示していて面白い。彼はゆったりと悲しく瞑想していたいような人だったのではないか。だから、ショスタコービチの暗さに引きつけられてしまうのであろう。しかし、彼の音楽的な資質はそうでもなく、交響曲第3番なんかをきくと、これまたショスタコーヴィチの第6と9をあわせたような曲ではあるのだが、結構自然だ。――ショスタコーヴィチの場合は「強いられた歓喜」が問題だったのだが、彼の場合は「強いられた苦悩」が問題だったのかもしれない。