★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

さはこれより外に賜ぶべき物のなきにこそあんなれ

2018-09-21 23:41:18 | 文学


落合陽一氏が、「わらしべ長者」の生き方がよいとか言っていた気がするが、確かにそういうことはある。必要なのは教えやお告げではなく物なのだ。そこから始める必要がある。様々な物に埋もれた我々がそのような時の寂しさと誇りを取り戻すのは至難の技だとしても……

女版「わらしべ長者」ともいうべき話が、「清水寺御帳賜る女の事」(『宇治拾遺物語』)である。女はひたすら清水寺に参っていた。御利益を探す人間というのはえてしていろいろ捨て去ることが多いが、この人もそうで家からもさまよい出て清水寺にすがるようになってしまった。あるとき夢で、ならこれあげるよと観音がくれたのが御帳の帷子。

さはこれより外に賜ぶべき物のなきにこそあんなれ

と女は思ってしまう。それにしても、不自然である。いや、不自然ではない。わたくしも学生を指導なんかしていると、あまりに役に立つアドバイスに対しては不満顔なのに、「ありがたい役に立たない話」をしてやると満足して帰って行く学生を沢山みてきた。確かにそうだ。

お返しします、いやもらっとけ、いやおかえしします、無礼なやつだ貰っとけというに、みたいなやりとりが夢を見るたびに行われ(忙しいなあ……)、結局、寺から盗んだと思われちゃいやなんでみたいな理由で貰っておくことにした女である。

これをいかにとすべきならん、と思ひて引き広げて見て著るべき衣もなきに、さはこれを衣にして著ん、と思ふ心付きぬ


着る物もなかったんかい、と突っ込むまもなく、それを着た女は人々の目に非常にかわいらしく映り出す。結局、この女の不幸は着る物に問題があったとしか思えない。女は何もかもうまくゆくので、しまいにゃ、うまくいかなければならない時だけそれを着て幸福を得るという駆け引きさえ身につけてしまうのであった。

しかし、この話はまだ服を満足に着られない人間がいた時代の話であって、わたくしは不安を覚える。『サンピエンス全史』の著者が確か言っていたように、我々が直面しているのは、上のように「物」に従えば「我々は何を望むのか」という問いに直ぐさま捉えられるというそのスピードの壁なのである。昔は、そこまで欲望の妥当性に悩まされることはなかったような気がする。キャリア教育とかなんとかも、本当は、キャリアへの主体的な選択は問題じゃない。我々にとってキャリアなんて本当はあるのかという問いに我々が直面しているからなのである。