★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

逃げ得たる者もあれども

2018-09-03 23:19:35 | 文学


「唐卒都婆、血つく事」(「宇治拾遺物語」)では、長生き(二〇〇歳生きた人もいるみたい)の家系の婆さんが、毎日卒塔婆を見に来ている。卒塔婆に血がついた日に、天変地異が起こるから、逃げなければならないからである。それをみつけた、若者達が、からかって、いたずらに卒塔婆に血をつけると、それを見つけた婆さんは、大変だと言って逃げてしまった。

これを見て、血つけし男ども手をうちて笑ひなどする程に、そのことともなく、さざめき、 ののしりあひたり。風の吹くるか、いかづちのなるかと、思あやしむほどに、空もつつみやになりて、あさましくおそろしげにて、この山ゆるぎたちにけり。

どうも、この不良どもは、婆さんがこつこつ七〇年卒塔婆を訪ねてるようなつまんない行為が面白くないので、山が崩れて海になるみたいな結末を望んでいるところがあるのではなかろうか。人心が乱れれば天変地異が起こるとか言う(逆も言うし、実際はそっちの方が多いのかもしれん……)が、そう見えてしまったりするのは、天変地異など頻繁に起こるから人心が乱れたところに一致するところが多いかもしれないのと、――たぶん、大地震のサイクルと、人々のモラルが出来上がって溶けきる時間とが、案外一致してしまうところがあったりもするからではなかろうか。一五〇年とか二〇〇年とかいうサイクルが……。

というのは、わたくしの無教養の推測であるが、それはともかく、この話でも、全員が滅びたわけではない。

逃げ得たる者もあれども、親の行方も知らず、子をも失なひ、家の物の具も知らずなどして、をめき叫び合ひたり。この女一人ぞ、子・孫も引き具して、家の物の具、一つも失なはずして、かねて逃げ退きて、静かに居たりける。 かくてこの山みな崩れて、ふかき海となりにければ、これをあざけり笑ひしものどもは、みな死にけり。

逃げ切れた者もいたし、婆ちゃん一家は無事であった。一つの時代が終わっても、人間は別にそんな時代とは元々関係ない。

一つ昔前の特撮映画などでは、悪いやつは必ず1時間3分あたりで怪獣や大魔神に踏みつぶされてしまうのだが、最近はあんまりそれがないのがつまらない。婆さん一家のように長い時間の――我々の生を超えた何かだけを守ることの大切さというものがあり、その前では、ちんけな不良どもは死ぬべきなのだ、というか現に死ぬことが多いのではなかろうか。怪獣的なものではあっても――それは、何とか政権とか大和心とか「日本」みたいな幻想ではなく、山の運命と手を携えた非人間的な老人のルーチンワークであって、それは一族の超長い持続的平安に向かって粘り強く進んでいく。永遠の思春期不良たちには向かない営為であった……。だいたい、体力もあるのに彼らが個人としては孤立していながら、婆さん一家に対する世間の評価を代弁しているだけの存在だから、まあこういう人たちはいつも擬制の終焉につきあう。

したがって、不良どもはかわいそうだ。暇だったら、政治運動でもやればよかったのに、と私は思う。だいたいそれはあやまちにおわる。しかしかかることを禁じているから、若者が死ぬ。

ここまで書いてきて、わたくしも気をつけないと「立正安国論」みたいなことを言い始めかねないと思った……。