今日は、元のソンソン町を回って見ましょう。
フレミングホテルを出ると、すぐ道路工事現場になります。
町の中はいたるところ大規模な道路工事が行われていて、車で走るのが大変でした。
噂だと思いますが、「この工事費は日本が負担している」と聞きました。
沖縄からグアムに移転する米軍の駐留基地が一部テニアンになるので、そのための工事ではないかとの噂です。
日本から、建設会社が工事入札のため視察に来ているとの話もありました。
工事を避けて港に来ました。
サイパンからの定期船が入る桟橋には、テロを警戒するとの理由で、鍵の掛かった扉が閉まっていて、入ることが出来ませんでした。
その横のボートハーバーには、釣りに行くボートなどが係留されています。
下を見ると沢山の浜フエフキ鯛が泳いでいますが、ここは禁漁区なので釣りをすることが出来ません。
残念です。
タガ族の遺跡も、観光客の数が少なくなったようです。
世界遺産に登録できるような貴重な遺産なのですが、このまま放置されるのが勿体無いですねー。
遺跡の前の道路も、ご覧のように工事中です。
大きな管が道路の淵に埋設されていましたが、これを埋設するのが工事の主目的ではないのかと白爺は思ってしまいました。
テニアン島の北半分が米軍基地に変わり、立ち入り禁止になるとの噂を聞くと、それに伴う工事ではないかと思うのも、已むを得ないのでは・・。
支庁桟橋横の浜辺(カマ・ビーチ)です。
浜辺の波は、白爺が初めて泳ぎを覚えて頃と同じ姿で打ち寄せていました。
藤方代書屋の隣にあったこの建物は、当時誰も気にしない建物だったが、今ではスペイン時代からの建物跡というので、テニアンの観光名所になりかけています。
この建物に近い交差点には「南洋群島サイパン支庁テニアン出張所」(通称支庁)がありました。
写真はその場所です。
裏に回れば、現在も警務課の留置場が残っています。
鉄格子も昔のままですから、少し手入れをすれば使用出来るのでは・・。
テニアンには、入る必要のある人はいない?かもねー。
白爺が子供の頃よく薄皮饅頭を買った「あいづ屋饅頭店」の店跡も、今回通ったら柱だけになっていました。
二・三年前までは「あいづ屋」の文字が残っていたのに、時代には勝てませんねー。
戦況が厳しくなった頃、各隣組では警防団の組織が出来ました。
当番の人たちは、交代でこの消防組の詰め所に集まって町内監視をしていました。
白爺の父親も当番の日の夜はここに詰めていました。
テニアン郵便局の局舎裏にあった、無線通信室の電源室跡だと思います。
白爺は、中央公園を横切りこの建物の横を通ってアイスキャンデーを買いに行きました。
その時聞いたモールス通信の音に憧れて、白爺は現役時代の仕事を選んだのかも知れません。
広い広場だった中央公園の場所には、現在ストアーが建っています。
最初のテニアン空襲の際には、町の人がここに集合してマルポ方面に避難しました。
沖に見えた海軍輸送船の灯りと暗闇のマルポ街道に響くメリケン松の葉音が、今でも白爺の記憶に残っています。
公園の北側は、昔は全部先生や支庁の官舎街になっていたのですが、今はこのガソリンスタンド以外は目立ちませんでした。
スタンドの後方には、テニアン小学校の校舎が見えます。
スタンドの筋向いは、白爺の家のあった屋敷跡です。
建物は、春海寺という禅宗のお寺だったので、敷地は南洋庁から借りていたようです。
弟の戸籍謄本には、テニアン町宮前区番外地出生とありますから、官庁の官舎同様一等地だったのでしょう。
学校が近かったのが、白爺には嬉しい思い出です。
続きは次に・・待っててねー。
フレミングホテルを出ると、すぐ道路工事現場になります。
町の中はいたるところ大規模な道路工事が行われていて、車で走るのが大変でした。
噂だと思いますが、「この工事費は日本が負担している」と聞きました。
沖縄からグアムに移転する米軍の駐留基地が一部テニアンになるので、そのための工事ではないかとの噂です。
日本から、建設会社が工事入札のため視察に来ているとの話もありました。
工事を避けて港に来ました。
サイパンからの定期船が入る桟橋には、テロを警戒するとの理由で、鍵の掛かった扉が閉まっていて、入ることが出来ませんでした。
その横のボートハーバーには、釣りに行くボートなどが係留されています。
下を見ると沢山の浜フエフキ鯛が泳いでいますが、ここは禁漁区なので釣りをすることが出来ません。
残念です。
タガ族の遺跡も、観光客の数が少なくなったようです。
世界遺産に登録できるような貴重な遺産なのですが、このまま放置されるのが勿体無いですねー。
遺跡の前の道路も、ご覧のように工事中です。
大きな管が道路の淵に埋設されていましたが、これを埋設するのが工事の主目的ではないのかと白爺は思ってしまいました。
テニアン島の北半分が米軍基地に変わり、立ち入り禁止になるとの噂を聞くと、それに伴う工事ではないかと思うのも、已むを得ないのでは・・。
支庁桟橋横の浜辺(カマ・ビーチ)です。
浜辺の波は、白爺が初めて泳ぎを覚えて頃と同じ姿で打ち寄せていました。
藤方代書屋の隣にあったこの建物は、当時誰も気にしない建物だったが、今ではスペイン時代からの建物跡というので、テニアンの観光名所になりかけています。
この建物に近い交差点には「南洋群島サイパン支庁テニアン出張所」(通称支庁)がありました。
写真はその場所です。
裏に回れば、現在も警務課の留置場が残っています。
鉄格子も昔のままですから、少し手入れをすれば使用出来るのでは・・。
テニアンには、入る必要のある人はいない?かもねー。
白爺が子供の頃よく薄皮饅頭を買った「あいづ屋饅頭店」の店跡も、今回通ったら柱だけになっていました。
二・三年前までは「あいづ屋」の文字が残っていたのに、時代には勝てませんねー。
戦況が厳しくなった頃、各隣組では警防団の組織が出来ました。
当番の人たちは、交代でこの消防組の詰め所に集まって町内監視をしていました。
白爺の父親も当番の日の夜はここに詰めていました。
テニアン郵便局の局舎裏にあった、無線通信室の電源室跡だと思います。
白爺は、中央公園を横切りこの建物の横を通ってアイスキャンデーを買いに行きました。
その時聞いたモールス通信の音に憧れて、白爺は現役時代の仕事を選んだのかも知れません。
広い広場だった中央公園の場所には、現在ストアーが建っています。
最初のテニアン空襲の際には、町の人がここに集合してマルポ方面に避難しました。
沖に見えた海軍輸送船の灯りと暗闇のマルポ街道に響くメリケン松の葉音が、今でも白爺の記憶に残っています。
公園の北側は、昔は全部先生や支庁の官舎街になっていたのですが、今はこのガソリンスタンド以外は目立ちませんでした。
スタンドの後方には、テニアン小学校の校舎が見えます。
スタンドの筋向いは、白爺の家のあった屋敷跡です。
建物は、春海寺という禅宗のお寺だったので、敷地は南洋庁から借りていたようです。
弟の戸籍謄本には、テニアン町宮前区番外地出生とありますから、官庁の官舎同様一等地だったのでしょう。
学校が近かったのが、白爺には嬉しい思い出です。
続きは次に・・待っててねー。
最初の話では今年の6月ごろと聞いていましたが、沖縄がハッキリしないので少し遅れるとも言っています。
総合して観察すると1年ぐらいはOKではないかという気がしますが、これは感です・・。
来年あたり一緒にいかれたらいいなと思っているのですが・・。