この写真は、NHK連続テレビ小説「おひさま」の番組公式サイトの写真ですが、白爺は毎日この放送を楽しみにして見ています。
陽子先生は、昭和16年に師範学校を卒業して、国民学校4年生を担当したそうです。
↑白爺が入学したテニアン小学校跡
昭和16年の白爺は、テニアン国民学校初等科の4年生でしたから、陽子先生が教えている生徒と同じことをしていたのでしょう。
有明山国民学校の生徒が行っている所作は、白爺の思い出と重なるので、毎日テレビを見ながら感涙を流しています。
↑十村国民学校高等科入学記念写真
白爺は、米軍攻撃が激しくなった昭和19年春に、「強制引揚命令」でテニアン島から帰国し、福井県若狭の十村国民学校高等科に転校しました。
引揚時に南洋庁から「国民服」を支給されたので、白爺はその服を着て通学しましたが、学校では「恩賜の服を着ている」と羨ましがられました。
二学期になると母親が風邪をこじらせて寝込んでしまいました。
弟に弁当を持たせたが、白爺は空弁(空港弁当ではない)を持って行き、弁当時間中は砂場で過ごしていました。
それを知った担任の河村先生は、小使室(ゴメン)に白爺を呼び、毎日自分の弁当を半分食べさせてくれました。
このご恩は、白爺一生忘れることが出来ません。
先生本当に有難うございました。
↑十村国民学校高等科卒業記念写真
2年生になると母親の病気が重くなり、白爺は介護のために学校へ行くことが出来なくなりました。
通信簿を見ると1年間で通学78日欠席194日となっていますから、殆ど学校には行けなかったのだと思います。
卒業式にも出席できなかったので、記念写真には写っていません。
↑卒業認可の通信簿
卒業後校長先生がそっと教えてくれました。
”休みの多い白爺を卒業させてよいか、いろいろ論議があったが、河村先生が「戦争と家庭の犠牲になったのだから卒業させる」と頑張った。”
今なら教育委員会などから「卒業不可」のお達しが出たでしょうねー。
通信簿も転校当時は優が多かったのに、卒業の時は可が多くなっていました。
↑伊勢神宮でクラス会
白爺達のクラスは、還暦を迎えた年に伊勢神宮でクラス会を開きました。
白爺も東京から敦賀まで出向いて、同級生とともにJRのお座敷列車に乗りました。
昔の子供は、皆よいお爺さん・お婆さんになっています。
伊勢の旅館では、恩師河村先生を囲んで子供時代の話に花が咲きました。
「A子とB太郎は仲がよかった」とか「C雄は農業の時間に糞肥を運ばなかった」とか、いろいろありましたが「白爺は先生から弁当を貰ってずるい!」と、この席で初めてイジメられてしいました。
あれから20年が経過し、河村先生は亡くなりました。
同級生は、元気でいれば皆80歳を迎えるでしょう。
話は横道に外れてしまいました。
明日の連続テレビ小説はどうなるでしょう?
また涙を流しながら見ることにします。
陽子先生は、昭和16年に師範学校を卒業して、国民学校4年生を担当したそうです。
↑白爺が入学したテニアン小学校跡
昭和16年の白爺は、テニアン国民学校初等科の4年生でしたから、陽子先生が教えている生徒と同じことをしていたのでしょう。
有明山国民学校の生徒が行っている所作は、白爺の思い出と重なるので、毎日テレビを見ながら感涙を流しています。
↑十村国民学校高等科入学記念写真
白爺は、米軍攻撃が激しくなった昭和19年春に、「強制引揚命令」でテニアン島から帰国し、福井県若狭の十村国民学校高等科に転校しました。
引揚時に南洋庁から「国民服」を支給されたので、白爺はその服を着て通学しましたが、学校では「恩賜の服を着ている」と羨ましがられました。
二学期になると母親が風邪をこじらせて寝込んでしまいました。
弟に弁当を持たせたが、白爺は空弁(空港弁当ではない)を持って行き、弁当時間中は砂場で過ごしていました。
それを知った担任の河村先生は、小使室(ゴメン)に白爺を呼び、毎日自分の弁当を半分食べさせてくれました。
このご恩は、白爺一生忘れることが出来ません。
先生本当に有難うございました。
↑十村国民学校高等科卒業記念写真
2年生になると母親の病気が重くなり、白爺は介護のために学校へ行くことが出来なくなりました。
通信簿を見ると1年間で通学78日欠席194日となっていますから、殆ど学校には行けなかったのだと思います。
卒業式にも出席できなかったので、記念写真には写っていません。
↑卒業認可の通信簿
卒業後校長先生がそっと教えてくれました。
”休みの多い白爺を卒業させてよいか、いろいろ論議があったが、河村先生が「戦争と家庭の犠牲になったのだから卒業させる」と頑張った。”
今なら教育委員会などから「卒業不可」のお達しが出たでしょうねー。
通信簿も転校当時は優が多かったのに、卒業の時は可が多くなっていました。
↑伊勢神宮でクラス会
白爺達のクラスは、還暦を迎えた年に伊勢神宮でクラス会を開きました。
白爺も東京から敦賀まで出向いて、同級生とともにJRのお座敷列車に乗りました。
昔の子供は、皆よいお爺さん・お婆さんになっています。
伊勢の旅館では、恩師河村先生を囲んで子供時代の話に花が咲きました。
「A子とB太郎は仲がよかった」とか「C雄は農業の時間に糞肥を運ばなかった」とか、いろいろありましたが「白爺は先生から弁当を貰ってずるい!」と、この席で初めてイジメられてしいました。
あれから20年が経過し、河村先生は亡くなりました。
同級生は、元気でいれば皆80歳を迎えるでしょう。
話は横道に外れてしまいました。
明日の連続テレビ小説はどうなるでしょう?
また涙を流しながら見ることにします。
傘寿になって振り返ると、泣いた時代の経験が、充実した人生つくりに大きく役立っていると感じています。
テニアンへ行くと「おひさま」を見落としてしまうので悩みます。
ご苦労様です。
私も毎朝おひさまを見て涙してます。
私の両親が白爺様と同じ年齢です。
この日記に感動してます、ありがとうございます。
あの時代、女性、特に仕事を持つ若い女性はほんとに大変だったのですね。
白爺さまも、いろいろご苦労をされたのですね。河村先生も素晴らしいお方でしたね。このお話と併せて、今日の日記に涙、です。