6月は南洋桜(鳳凰木)が満開
最近の新聞紙上には、国会議員が、
「沖縄の米海兵隊の基地をテニアン島に移動させろ」
と提案していると報じています。
日本海軍第1航空艦隊司令部
確かにテニアン島には、昔日本海軍の第1航空艦隊司令部があり、不沈空母として利用するには最適な所と思います。
しかし、テニアン島を我が故郷としていたのに玉砕に遭遇し、九死に一生を得て生き残った白爺たちには、戯言としか聞こえず泣きたくなってしまいます。
本土爆撃に使用されたテニアンのB29基地
テニアン島は、日本軍玉砕を迎えたら、超短期間に日本本土空襲のB29大基地になりました。
現在も残るB29滑走路
当時本土空襲のために使用した4本の滑走路は、現在でも使用できるのではと思うくらい確りと残っています。
基地跡は時々グアムから米軍が訓練に来て使用している
このほかに2本ありますが、これらの基地跡は今でも時々グアムから米軍が演習に来て使用しているようです。
原爆を積んで広島攻撃に出発するB29
この滑走路から、広島・長崎へ原爆を投下したB29も離陸しました。
原爆をこの起重機でB29に積み込んだ
エノラゲーの尾翼下に見える場所が、多分この原爆搭載施設だと思います。
今も記念碑を建てて保存してありますが、海兵隊の基地になったら邪魔だというのではないでしょうか。
それとも又原爆を積み込む施設に使用すのでしょうか?
一寸話題を変えて玉砕時の光景を思い出してみましょう。
テニアン島の北から上陸した米軍は、ハゴイの海軍航空艦隊司令部を占領し南下して攻撃をしてきました。
司令部の航空隊兵士は、ラソー丘のジャングル⇒サバネタバスを経由して民間人が逃れていたカロリナス台地に撤退しました。
カロリナスのジャングル内には沢山の洞窟があり、Emiiもこのような洞窟に逃げていましたが、これまでと覚悟を決めて、両親と藤蔓で首を吊り自決しようとしました。
すると通りかかった撤退中の兵隊さんに
「何をバカなことをするのだ!民間人は殺さないから手を上げて投降しなさい」
と諭されたので、死を覚悟で捕虜となり運よく今まで生きています。
Emiiが入ろうとしている洞窟の中には、隠れていた民間人の食器類が沢山残っていました。
最近判ったのですが、この洞窟には白爺の友達である宜野座朝憲さんの家族・テニアン航空隊の兵隊さん・海軍少年兵として従軍していた鳥取市の磯部さん等が避難していたようです。
洞窟の詳しい写真は、添付する「デジブック」で見てください。
Emii達は運よく自決を免れましたが、宜野座さん一家は自決を止めてくれる人がいなかったので、この場所でダイナマイト自決をしました。
友達の朝憲さんだけは、中学生としてパラオ島に行っていたため自決を免れ、戦後慰霊のためこの掲示をしました。
白爺は、michiさんの案内でこの自決場所からさらに先の探検をしたことがあります。
闇夜の中で艦砲射撃を逃れながら、よくこのようなジャングルを逃げ歩いたものだと今となれば感心します。
この先は、波の音は聞こえるのですが崖の行き止まりです。
死を覚悟しなければ進めないので、引き返しました。
この様な戦争に対する嫌な歴史のあるテニアン島に、又大きな基地を造ると聞くと、白爺は悲しくなってしまいます。
仮に基地が造られると、見ることが出来なくなる景色を紹介しましょう。
観光で有名な「潮吹き海岸」も見ることが出来なくなります。
潮吹き海岸先にある、ホーンさんたちが投網で魚を捕るリーフにも入れなくらるでしょう。
サイパンに一番近い「牛岬」の海岸にも行けなくなります。
白爺たちが大魚を釣るロングビーチやバーブイビーチの魚釣りも、出来なくなるのでしょうねー。
残念・無念!
白爺は基地に決まらないよう祈念して、6月にはテニアンへ行ってきます。
そして、負傷して洞窟に逃れた「磯部海軍少年兵」ともテニアン島で再会してきます。
「デジブック」
航空艦隊の兵士が玉砕戦に出撃したカロリナスの洞窟(2009.08.22掲載)
Michiさん&びけちゃんが決死の思いで探検している
2009年8月11日、TBSで放映された「最後の赤紙配達人」の中で、鳥取県の磯部さんが航空艦隊の航空兵に戦況を説明しながら、九死に一生を得たという洞窟です。
「テニアン大好きマン」荘さんが写されました。
テニアン島の玉砕戦(2009.07.28掲載)
テニアン島日米激戦の記録写真です。
南洋興発のアルバムやアメリカ公文書館等にある写真を集めました。
最近の新聞紙上には、国会議員が、
「沖縄の米海兵隊の基地をテニアン島に移動させろ」
と提案していると報じています。
日本海軍第1航空艦隊司令部
確かにテニアン島には、昔日本海軍の第1航空艦隊司令部があり、不沈空母として利用するには最適な所と思います。
しかし、テニアン島を我が故郷としていたのに玉砕に遭遇し、九死に一生を得て生き残った白爺たちには、戯言としか聞こえず泣きたくなってしまいます。
本土爆撃に使用されたテニアンのB29基地
テニアン島は、日本軍玉砕を迎えたら、超短期間に日本本土空襲のB29大基地になりました。
現在も残るB29滑走路
当時本土空襲のために使用した4本の滑走路は、現在でも使用できるのではと思うくらい確りと残っています。
基地跡は時々グアムから米軍が訓練に来て使用している
このほかに2本ありますが、これらの基地跡は今でも時々グアムから米軍が演習に来て使用しているようです。
原爆を積んで広島攻撃に出発するB29
この滑走路から、広島・長崎へ原爆を投下したB29も離陸しました。
原爆をこの起重機でB29に積み込んだ
エノラゲーの尾翼下に見える場所が、多分この原爆搭載施設だと思います。
今も記念碑を建てて保存してありますが、海兵隊の基地になったら邪魔だというのではないでしょうか。
それとも又原爆を積み込む施設に使用すのでしょうか?
一寸話題を変えて玉砕時の光景を思い出してみましょう。
テニアン島の北から上陸した米軍は、ハゴイの海軍航空艦隊司令部を占領し南下して攻撃をしてきました。
司令部の航空隊兵士は、ラソー丘のジャングル⇒サバネタバスを経由して民間人が逃れていたカロリナス台地に撤退しました。
カロリナスのジャングル内には沢山の洞窟があり、Emiiもこのような洞窟に逃げていましたが、これまでと覚悟を決めて、両親と藤蔓で首を吊り自決しようとしました。
すると通りかかった撤退中の兵隊さんに
「何をバカなことをするのだ!民間人は殺さないから手を上げて投降しなさい」
と諭されたので、死を覚悟で捕虜となり運よく今まで生きています。
Emiiが入ろうとしている洞窟の中には、隠れていた民間人の食器類が沢山残っていました。
最近判ったのですが、この洞窟には白爺の友達である宜野座朝憲さんの家族・テニアン航空隊の兵隊さん・海軍少年兵として従軍していた鳥取市の磯部さん等が避難していたようです。
洞窟の詳しい写真は、添付する「デジブック」で見てください。
Emii達は運よく自決を免れましたが、宜野座さん一家は自決を止めてくれる人がいなかったので、この場所でダイナマイト自決をしました。
友達の朝憲さんだけは、中学生としてパラオ島に行っていたため自決を免れ、戦後慰霊のためこの掲示をしました。
白爺は、michiさんの案内でこの自決場所からさらに先の探検をしたことがあります。
闇夜の中で艦砲射撃を逃れながら、よくこのようなジャングルを逃げ歩いたものだと今となれば感心します。
この先は、波の音は聞こえるのですが崖の行き止まりです。
死を覚悟しなければ進めないので、引き返しました。
この様な戦争に対する嫌な歴史のあるテニアン島に、又大きな基地を造ると聞くと、白爺は悲しくなってしまいます。
仮に基地が造られると、見ることが出来なくなる景色を紹介しましょう。
観光で有名な「潮吹き海岸」も見ることが出来なくなります。
潮吹き海岸先にある、ホーンさんたちが投網で魚を捕るリーフにも入れなくらるでしょう。
サイパンに一番近い「牛岬」の海岸にも行けなくなります。
白爺たちが大魚を釣るロングビーチやバーブイビーチの魚釣りも、出来なくなるのでしょうねー。
残念・無念!
白爺は基地に決まらないよう祈念して、6月にはテニアンへ行ってきます。
そして、負傷して洞窟に逃れた「磯部海軍少年兵」ともテニアン島で再会してきます。
「デジブック」
航空艦隊の兵士が玉砕戦に出撃したカロリナスの洞窟(2009.08.22掲載)
Michiさん&びけちゃんが決死の思いで探検している
2009年8月11日、TBSで放映された「最後の赤紙配達人」の中で、鳥取県の磯部さんが航空艦隊の航空兵に戦況を説明しながら、九死に一生を得たという洞窟です。
「テニアン大好きマン」荘さんが写されました。
テニアン島の玉砕戦(2009.07.28掲載)
テニアン島日米激戦の記録写真です。
南洋興発のアルバムやアメリカ公文書館等にある写真を集めました。