《試練》――現在史研究のために

日本の新左翼運動をどう総括するのか、今後の方向をどう定めるのか

沖縄を旅して、集団的自衛権行使容認=戦争を断罪する

2014-06-27 02:35:11 | 日本の政治・軍事―日本の動きⅠ
沖縄を旅して、集団的自衛権行使容認=戦争を断罪する

集団的自衛権の行使容認が7月1日にも閣議決定されようとしている。皮一枚でつながっていた憲法第9条は完全に息絶えてしまうのか‼ 自公協議の密室であたかも“物事が決まり”かのようされているのはとんでもない‼ 一刻も早く永田町から、国会から、論議を外に引っ張り出さなければならない。

●「軍隊は国民を守らない」を実感した旅

 6月23日に沖縄の魂魄の搭に行ってきました。
 那覇空港に着いて最初に訪ねたのは対馬丸記念館だった。対馬丸事件は、5月15日の安保法制懇の報告書を受け取った安倍晋三の記者会見と重なる。赤ちゃんを抱いた母親が朝鮮半島有事に米艦船で避難する事例を出し、「この米艦船が攻撃されても黙って見殺しにするのか」と安倍晋三は声を張り上げた。まったくふざけた話ではないか‼
 1944年8月、対馬丸には「やまと」に避難する千数百人の学童が乗り込んでいた。大日本帝国海軍の軍艦2隻が護衛していた。だが米潜水艦に攻撃された対馬丸は20分足らずで沈没し、ほとんどの学童が亡くなってしまった。護衛していた大日本帝国海軍の軍艦は投げ出され海の中で救助を待つ学童の誰一人も救助することなく、目的地の長崎へ逃げていった。わずかばかり生き残った学童には「かん口令」がしかれ、家族との連絡も一切禁止された。安倍晋三は、この対馬丸事件を繰り返そうとしているのだ。
 南部戦跡に向かう車の中から、沖縄南部の糸満市にある真壁村・摩文仁村・喜屋武村の合併により誕生した旧三和村の一帯で、住宅地の間に少しばかりの空き地とそこに作業小屋のような小さな建物が建っているのを見かけた。一家全員が戦争で殺され住む人がいなくなった土地に親戚の人が位牌を安置するために作った小屋だそうだ。旧三和村だけでも1500戸超が一家全滅させられていると聞いた。荒崎海岸は私の足では歩けなかった。右ひざの人工関節の手術を受けて1年足らずの足では、荒崎海岸に踏み込んで4、5メートルで立ち往生した。はだしでは痛くて立ってもいられない。
 上陸した米軍の迫撃砲から逃げ惑い、追い詰められ、たどり着いた海岸で身を隠そうとした壕からは日本軍によって追い出され、「目標になる」と背後から日本軍に射撃で殺され、海からは艦砲攻撃が襲いかかり、とうとう喜屋武岬の断崖絶壁に追い詰められた沖縄の人たち。日本軍は沖縄の人たちを守らなかったどころか、「邪魔だ」と殺した。
 沖縄平和祈念館に沖縄南部に追い詰められ逃げ惑い、生き残った人々の手記がある。私が読ませてもらった限り、「戦火の中でもやさしかった日本の兵隊さん」の話など一言もない。日本軍は沖縄の人たちを守らなかった。「国の存立」「国民の幸福追求の権利」を守るために集団的自衛権を行使すると安倍晋三はいうが、69年前の沖縄は「軍隊は国民を守らない」ことを教えている。
 2泊3日の沖縄の旅は、6月22日に読谷村・ハン(恨)の碑の追悼式へ参加させていただき、6月23日の魂魄の搭から旧三和村を抜け、荒崎海岸・喜屋武岬への道を逃げ惑った沖縄の人々の気持ちに寄り添いながらたどり、6月24日沖縄平和祈念館で手記を読ませてもらった旅でした。企画立案は福岡のヤスミン・ライブラリー店主の、かおり・ふじなが・ナセルさんで、沖縄で一緒に行動してくれたのはやまとで生活しながら、1カ月のサイクルで東村高江に駆けつけ、オスプレイ・ヘリパッド建設阻止を闘っている仲村渠政彦さんです。感謝です。

●地球上から一切の戦争をなくすことが課題

 集団的自衛権の行使容認は戦後日本の大転換である。ベトナム戦争に沖縄米軍嘉手納基地からB52が北ベトナムの爆撃に飛び立ち、それに対する沖縄全軍労の基地労働者の基地機能を止めるたたかいや反戦反基地闘争などでまがりなりにも皮一枚残された憲法9条が完全に息絶えてしまいかねない。侵略戦争は繰り返さない、戦争は二度と繰り返さない、と誓ったはずが、安倍晋三の憲法解釈変更で投げ捨てられてしまう。集団的自衛権の行使容認は戦争のできる国への転換であることは、多くの人々が言うように、あまりにも明らかである。
 憲法9条では戦争をなくすことはできない。しかし国際紛争の解決の手段として武力は行使しない、その軍事力も持たない、交戦権ももたない、戦争は繰り返してはいけない、と誓ってきた。「押し付け憲法」として文句をつけるならば、国際紛争の解決の手段として武力を行使しないにとどまらず、この地球上から戦争をなくすことそのものを目的としなかった憲法9条を「押し付け」と批判し、かつ天皇の名のもとにすべてを戦争に動員した天皇制を象徴として残した「押し付け」に抗議すべきである。集団的自衛権の行使容認は、私たちにこの地球上から一切の戦争をなくすことを課題として突きつけている。
 公明党は個別自衛権や警察権で集団的自衛権に対抗しようとした。民主党もそうだし、『世界』7月号の論調も同じである。この“集団的自衛権はだめだが、個別自衛権は認める”という立場に立てば、歴史が教えるように、自衛権の発動が侵略戦争の拡大になった道を繰り返す。公明党は、安倍晋三・自民党の集団的自衛権に歯止めをかけるといいながら、「国の存立」を守るだけではなく、「国民の権利、自由、幸福追求の権利を守る」と一言入れれば容認すると、なんのことはない、安倍晋三の水先案内人に成り果てたのだ。集団的自衛権の論議では、自衛権は集団的であろうが個別であろうが侵略戦争への道であることを鮮明にした議論が必要ではなかろうか。
 憲法9条を守るこれまでの運動には決定的な弱点があった。これは他人事ではない。反戦闘争をたたかい続けている私たち自身の問題である。それは、「敵が攻めてきたらどうするのか」「軍隊を持たずに国が守れるのか」「一国平和主義は身勝手」という論議にほとんどまともに論争できてこなかったのではないだろうか。「北朝鮮や中国に日本を攻める力はない」「敵が攻めてきたら手を上げて降参すればいい」などとか細くつぶやくだけでは、国民の大多数を獲得できなし、できてこなかった。
 戦争を繰り返してはいけない、侵略戦争を繰り返してはいけない、憲法9条を守ろう――この思いを共有することなくして反戦は成り立たない。この立場にしっかり立ちきって、この地球上から戦争をなくすためにはどうしたらいいのか、という議論を始めなければならない。それは、革命的祖国敗北主義の立場を生き生きと具体的なものとして広めることである。
 戦争にはふたつあること、侵略戦争と解放戦争の二つがある。反戦の立場だからこそ解放戦争を支持する。戦争は政治の継続である。帝国主義の戦争、現代の戦争は突然始まるわけではない。政治の延長として、別の手段による政治の継続として戦争は始まる。この戦争をなくすためにはその元になる帝国主義の政治をなくす以外にない。帝国主義の政治、帝国主義の社会が存在する限り戦争に必ず行き着く。この帝国主義の社会を変える以外にない。戦争のない社会を創ろうとするときに、その社会を阻止しようとする帝国主義の勢力は必ず戦争を仕掛けてくる。それを防ぐためには「自衛権」などの「権利」ではなく、その社会を構成するすべての人々ができる形で武器を取り、武器を取れない人たちは知恵やカネなどで戦いに加わり、帝国主義を打ち倒して自分たちの社会を建設する。
~~こんなまだるっこい議論ではなく、すっきりした論を組み立てよう。
……それは現実のたたかいの中からこそ生まれてくる。

2014年6月26日
博多のアイアンバタフライ


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